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2013年12月28日

一次生産を測る -魚と人の暮らしを支えるもの-

特集 メコン流域ダム貯水池の生態系機能評価
【研究ノート】

広木 幹也

 皆さんは「一次生産」という言葉をご存知でしょうか? 生態学の分野では、生物が二酸化炭素から有機物を生産することを「一次生産」と呼んでいます。植物が光エネルギーを使って有機物を合成する(光合成)ほかにも、細菌類の中には光エネルギーを利用せずにアンモニアや硫黄などの還元性物質を酸化して得られるエネルギーを利用して二酸化炭素から有機物を合成する(化学合成)ものもいます。これらの一次生産者によって合成された有機物を餌として他の動物は成長、増殖し、食物連鎖を形成するため、一次生産はその生態系全体の生物量と生産量とを支えており、一次生産が大きい生態系ほど、高次生産者の生産量も大きくなることができます。

 湖沼の生態系では一般に、植物プランクトンがこの一次生産を担っていると考えられています。湖沼では、植物プランクトンの増殖は時としてアオコの発生など生態系への悪影響が生じるリスクを伴いますが、藻類生産に支えられる食物網がもたらす魚類生産は、水産資源の提供など生態系サービスと捉えることができます。メコン川流域のダム開発を進める上で、新たに創出されるダム貯水池における一次生産の質と量を明らかにしていくことは、適切な開発と管理を行っていく上で非常に重要なことです。

 湖沼での一次生産は色々な方法で測定されますが、それぞれ長所や短所があります。研究という視点からは正確な値を求めるということが重要になりますが、調査した結果をもとにその後の環境影響評価などを行う場合、測定に要する時間や費用も、特に国外で実施する場合には利用できる実験設備や試料の運搬などの制約も考えて、どのような手法で調査を行っていくかを考えなければなりません。そのような点を考えて、我々は、原子量13の炭素の安定同位体(炭素原子の殆どは原子量が12)を利用して、自然条件下の一次生産を野外で実測しています。これは、湖からくみ上げた湖水をガラス瓶に入れ、通常は1%しか存在しない原子量13の炭素原子を10%になるように炭酸塩を加えて、ビンを一定時間、湖に沈めて植物プランクトンに光合成をさせる手法です。瓶を回収した後、その中の植物プランクトンをろ過し、その中に含まれる原子量13の炭素原子の量を質量分析計を用いて測定して、光合成された炭素の量を求めています。

 この方法は、植物プランクトンが光合成した炭素量を直接、測定しているという点で信頼性が高い手法であるということと、比較的短時間の現場作業(1~2時間)で測定が可能という利点があります。また、昼間に現場実験で得たサンプルは夜間にホテルの部屋で(場合によっては屋外や移動中の車の中ででも!)携帯用のろ過器を使ってろ過するので、現地では特別な実験室や特殊な分析器具を必要としません。ろ過したフィルターのみ実験室に持ち帰って質量分析計で測定を行っています。現在、我々はタイ、ラオス、カンボジアにおいて現地の共同研究者と一緒に熱帯の湖沼、貯水池の一次生産を調査、比較しています。車で移動しながら、昼間は湖沼で調査を行い、夜はホテルで試料の処理を行い、翌日は次の調査地へ向かいます。将来的には、このような経験に基づいて、特殊な設備を必要としない簡便な一次生産測定マニュアルを確立し、世界各地における戦略的環境アセスメントに役立てたいと考えています。

 このように測定した一次生産の結果を比べてみると、湖沼、貯水池によって、大きな差があります。タイ、ラオスの5つの貯水池とカンボジアの自然湖沼であるトンレサップ湖における、湖心部で測定した一次生産と漁業統計から得られた漁獲量の関係を示したのが図1左です。それぞれ面積当たりに換算したとき、ダム貯水池では一次生産量が大きい貯水池ほど大きい漁獲量が得られていることが分かります。漁獲量は魚法や対象となる魚の種類によって変わってきますが、新たに創出された貯水池の漁獲量と一次生産の間にこのような関係が認められることは、貯水池の一次生産量を知ることができればその貯水池から潜在的にどれ位の漁業生産が見込めるのか推定できるということを示しています。では何故、一次生産は貯水池によって異なるのでしょうか。

図1
図1 湖水中の一次生産と漁獲量(左)および全リン含量(右)との関係

 一次生産に影響する要因については、これまでにも多くの研究がなされてきました。普通に言われるのは栄養塩の量との関係で、特に、水中の全リン含量と一次生産の関係が指摘されています。私たちの調査でも、水中の一次生産と全リン含量の間には正の相関関係が認められました(図1右)。植物プランクトンは水中の窒素やリンなどの栄養塩を使って増殖します。一般に、湖沼ではリンが制限因子になっている場合が多いので水中の利用できるリンの量に比例して植物プランクトンは増殖します。これらの栄養塩濃度が過度に高くなると、植物プランクトンの大増殖を招いて、いわゆるアオコが発生します。では、これらのリンはどこから来るのでしょうか。

 周辺に都市や農耕地の多い地域では、人為起源のリンの流入が考えられます。一方、山間部に新たに作られたダム貯水池ではそれまで草原や森林であった土地が水没することにより陸上の植物や土壌有機物に含まれていたリンの溶出に由来するものの寄与も大きいのではないかと考えています。新たにダム貯水池を計画する時に、地質や土壌の性質、周辺の土地利用情報などから、ダム貯水池の一次生産を予測できないかということで、土壌、底泥からのリンの溶出機構についての研究も進めているところです。

 ところで、ダム貯水池のリン濃度と一次生産量、漁獲量の間にはこのような正の相関関係が見られるのですが、自然湖沼であるトンレサップ湖では、このような関係から外れています(全リン含量は多いが一次生産は少なくて、漁獲量は多い)。これは何故でしょうか。

 トンレサップ湖はタイやラオスのダム貯水池と異なり水深が浅くて広大、季節的に水の動きも激しく、底泥が巻き上がるため非常に透明度が低い(季節によっては10cm以下)という特徴があります。そのため、リン濃度は高いのですが光が水中に届かず、植物プランクトンによる光合成が水中のごく表層でのみ行われているという事情があります。実際、1、2月の比較的水位の高い時の調査でも、トンレサップ湖のシェムリアップでは表層で60μgCL-1h-1の一次生産に対して、60cm層では10μgCL-1h-1に減少していました。一方、私たちが調査を行っている貯水池の中で最も栄養塩濃度が低いタイのシリントーン貯水池では表層では5μgCL-1h-1程度ですが、5m層でもほぼ同程度の一次生産が観測されています。このように、多くの湖沼や貯水池ではリン濃度が制限因子になっているのに対し、トンレサップ湖ではリン濃度よりも光環境が水中の一次生産の制限因子となっていると考えられます。しかし一方で、トンレサップ湖では大きな漁獲量が得られていることも事実です。自然湖沼であるトンレサップ湖では雨季-乾季で水位や湖沼の面積が大きく変わり、それにともなって生じる沿岸域の広大な沈水林などからの有機物の供給も大きく、これが豊かな食物網構造を支えているのではないかと考えています。そのメカニズムを明らかにしていくことも今後の課題です。

(ひろき みきや、生物・生態系環境研究センター生態系機能評価研究室 主任研究員)

執筆者プロフィール

広木 幹也

元々は土壌微生物学が専門ですが、環境問題を扱ううちに色々なフィールドに出るようになりました。プロジェクト研究では専門の違う人達と一緒に仕事をすることで新たな視点が得られる面白さがあります。ミクロな生き物の活動が物質循環を通して生態系全体を動かしていることに、今更ながら驚かされました。

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