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化学物質の複合曝露による発がんリスクの評価

研究ノート

松本 理

 現在の私たちの生活のなかで,様々な形で流通している化学物質の数は約5万種類であるといわれている。その大部分は人類が自ら,しかも人類の歴史の中でほんの短い期間であるこの100年ほどの間に創りだしたものである。これらの化学物質は,私たちの生活を便利に,豊かに変化させてきた。一方,化学物質の毒性や,化学物質による環境汚染が明らかになるにつれ,多くの人々は漠然とした不安を感じている。しかし,化学物質に全く接触すること無く生活することは不可能になってしまった現代社会では,そのリスクを理解し,できる限り少なくするというのが,私たちの選択できる最善の対応であろう。

 化学物質のリスクを理解するためには,リスクを評価しなければならない。現在我が国では,新しく化学物質を製造したり取り扱ったりする際には「化学物質審査規制法」などの法律による規制を受けることになり,個々の物質が,環境,人の健康,生態系などに与える影響については,それぞれに関する試験を実施して,その結果を提出した上で審査を受けなければならない。既に流通している物質も,その毒性などが明らかになっているものは種々の規制を受けることになっている。

 しかし,いったん環境中に排出されてしまった化学物質はどうなるのであろうか。私たちは意識しないままに,好むと好まざるとに関わらず,これらの化学物質に曝露されてしまう。しかも,多くの化学物質に同時に曝露されることになる。そこで必要となるのが化学物質の複合曝露によるリスクの評価である。一般環境における複数の物質の曝露による健康リスクの評価は,これまでほとんど行われていない。そこで,複合曝露による健康リスクの簡便で分かりやすい評価手法を提示したい。

 化学物質の排出先として大気環境が最大の媒体であり,一般環境中で多くの人が意識しないうちに大気中に存在する物質に曝露されていることから,複合曝露リスク評価の最初の取り組みとして,大気環境中の化学物質の複合曝露による健康リスクの評価手法を検討した。健康影響としては,社会的関心が高く,リスク評価に利用できる研究報告の多い発がんのリスク評価を試みた。1999年に公布された「特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律」に基づく環境汚染物質排出・移動登録(PRTR)制度により,2002年度から第1回目の届出が開始され,354の化学物質の環境中への排出量が集計されている。公表されているデータより化学物質の大気中への排出量を集計し,大気中への排出量の多い物質を選び出した。図1に平成13年度PRTRデータより集計した大気中への排出量の多い物質を示す。排出量の多い物質を中心に10物質をモデル物質として選択した。

物質毎の排出量のグラフ
図1 大気中への排出量の多い物質(平成13年度PRTRデータより集計)
都道府県別の図
図2 大気中のベンゼン,トリクロロエチレン,テトラクロロエチレン,ジクロロメタン,ホルムアルデヒドによる都道府県別の複合発がんリスク
発がんリスクの算出に用いた各物質のユニットリスクの値は著者らが求めた値を用いた。また,各物質の大気中濃度は平成14年度地方公共団体等における有害大気汚染物質モニタリング調査結果を使用した。なおここに示したリスクの数字は,現在の濃度で人が一生涯(70年)継続して曝露されると仮定したときに,がんが発症する確率であり,実際には年々減少しつつある。
(注:図中で*が付いている県ではホルムアルデヒドの測定値がないため,ホルムアルデヒド以外の4物質による発がんリスクを示した。そのため,発がんリスクが他の都道府県より低めの値となっている。)

 化学物質の複合曝露というと,誰もがひとつの物質にだけ曝露されるよりもさらに悪影響が生じるのではないか,即ち相乗効果があるのではないかという懸念をもつと思う。しかしこのような相互作用は,動物実験の結果から推定すると,大気中の化学物質濃度の何十倍,何百倍といった非常に高濃度の曝露の場合にしか観察されないと思われる。また,このような効果を何種類もの物質について正確に明らかにするのは実際には不可能である。そこで,物質間の相互作用は考慮せず,各物質によるリスクの和が全体のリスクであると仮定して考えることにした。各物質によるリスクは物質そのものによる毒性(ここでは発がん性)の強さと存在量に依存する。即ち複合曝露による発がんリスクは,化学物質の発がんユニットリスクと,その大気中の濃度の積の総和で表すことができる。

 ここでユニットリスクというのは,ある物質を単位濃度で一生涯曝露したと仮定したときの影響の発生確率の増加分をいう。発がん物質の曝露がどんなに少量であっても生物に対する影響はなくならない,つまり発がんの確率はゼロにはならないという考え方を採用する場合,発がん性の強さはユニットリスクにより表すことができる。いくつかの物質の発がんのユニットリスクについては,世界保健機関(WHO)や米国環境保護庁などの機関が算出している。我々は選択した10物質について日本人の発がんのユニットリスクを求めることとし,これらの国際機関や各国の評価文書および元の文献を詳細に調査し,ユニットリスクを求める方法を検討した。基本的には,実験データから線形多段階モデルにより10%のリスク増加が推定される用量の95%信頼限界下限値を用いた低用量線形外挿によりユニットリスクを算出した。適切な数値を導くためには,適切な実験データの選択が重要であるが,選択の基準はあっても,実際には評価者の主観による部分も大きく,データの選択が最も悩むところであった。

 このようにして求めたユニットリスクの値を用いて複合発がんリスクを算出するためには,対象とする化学物質の大気中濃度の値が必要である。現時点で利用できる大気中濃度の値は,環境省による平成14年度地方公共団体等における有害大気汚染物質モニタリング調査結果で,19物質の測定が実施されている。選択した10物質の内,この調査で濃度が測定されているのは,ジクロロメタン,ベンゼン,ホルムアルデヒド,トリクロロエチレン,テトラクロロエチレンの5物質であった。トルエンとキシレンの排出量は多いが,発がん性が確認されていないので,ユニットリスクは0とした。そこで上記の5物質による複合発がんリスクを,国内各都道府県の測定地点の平均濃度を用いて計算した。図2に結果を地図に表示したものを示す。この調査は原則として月1回以上の頻度で測定を実施し,年平均濃度を求めることになっており,上記5物質の測定地点数は全国で約400ヵ所であった。都道府県ごとの測定地点数には0から31と大きな差があるため,そのまま比較することには問題もあるが,このマップでは人口の多い都府県とその周辺地域のリスクが高い傾向が示された。この5物質による複合発がんリスクでは,ホルムアルデヒドとベンゼンの寄与が他の3物質よりも大きい。これは,ホルムアルデヒドのユニットリスクが他の物質よりも高く,さらにホルムアルデヒドとベンゼンの実際の大気中の濃度が高いためである。大気中の化学物質による発がんリスクは,この2つの物質の寄与が中心となると思われる。

 ベンゼンのヒトに対する発がん性(急性骨髄性白血病)は過去の疫学研究より明らかで,それを基に大気環境基準も定められており,大気中への排出抑制対策も実施されてきている。しかし,ホルムアルデヒドの一般大気中における環境基準はまだ設けられていない。ホルムアルデヒドは室内曝露による化学物質過敏症の原因物質のひとつと考えられている物質であり,厚生労働省から室内濃度指針値が提案されているが,これはヒト曝露における鼻咽頭粘膜への刺激を毒性の指標としており,短期間の曝露によって起こる毒性に基づいたものである。ホルムアルデヒドの大気中への排出量は,実は家庭からの排出よりも,移動体即ち自動車等からの排出が大半を占めている。大気への排出量の内,ベンゼンは75%以上,ホルムアルデヒドは90%以上が移動発生源よりの排出であると推測される。自動車排出ガスそのものの低減対策も進められてはいるが,発がんリスクへの寄与の大きさから考えると,ベンゼンと同様に,ホルムアルデヒドについてもリスクを低減するための指針値を早急に設定すべきであろう。

 このように,化学物質の発がんユニットリスクを求めることができ,さらにその物質の大気中濃度の測定値があれば,複合曝露による発がんリスクを求めることができる。現在大気中の濃度が測定されていない化学物質で,排出量が多く,リスクが高い可能性のある物質のモニタリングを実施する必要があるかもしれない。

 現時点での問題点は,ユニットリスクを求めるのに必要な疫学あるいは動物実験のデータの入手可能な物質が多くないこと,曝露量の推定に必要な大気中の濃度が測定されている物質が少ないことである。調査結果をこのような目的に用いるためには測定地点の数や分布に関する検討も必要であろう。また排出量の多い化学物質には,大気中よりも室内における曝露量のほうが多いと推定される物質もあり,室内曝露と大気中の曝露のリスク評価を併せて考える必要がある。これらは今後の課題である。ここに示した14年度のモニタリング調査結果のデータから求めたリスクが,13年度のデータから求めた値よりも7割以上の都道府県で減少していることは喜ばしい傾向であろう。

(まつもと みち,化学物質環境リスク研究センター)

執筆者プロフィール:

職住近接のつくばでの生活も長くなりました。恵まれた環境で時間的な余裕もあるはずなのに,毎日慌ただしく過ごしています。近距離の移動でも自動車を使ってしまい,運動不足を気にしています。