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放射性炭素で海水大循環を調べる

研究ノート

米田 穣

 地球規模での海水循環が地球環境と密接に関連していることは広く知られている。なかでも,深海を約2000年という長い時間をかけてゆっくりと循環している深層水の流れは,海水を撹拌する大きな駆動力であり,低緯度から高緯度に熱エネルギーを運ぶ重要な働きをしている。海水は北大西洋グリーンランド沖で冷やされると同時に氷によって水分を奪われて塩分濃度が上昇する。そのため,海水の比重は非常に重たくなり,一気に深海まで潜り込むことで「熱塩循環」とよばれる深層水の流れが発生すると考えられている。ところが,最終氷期が終了した直後の1万1千年前頃に,深層水が形成される北大西洋に氷床が溶解してできた大量の淡水が流入したため,この熱塩循環が一次的に停滞したと考えられている。その結果として生じた気候変動は「ヤンガードライアス期」と呼ばれ,地球上の各地で急激な寒冷化とそれに続く急激な温暖化の証拠が見いだされている。その後,深層水の循環は比較的安定であると考えられてきたが,最近の海洋観測からその動きに予想外の大きな変動があることがわかってきた。それでは,深層水の熱塩循環が安定であると考えられてきた過去7000年間における変動を調べるにはどうしたらよいのであろうか? 我々は,この問題に取り組むために放射性炭素(炭素14)を指標とした研究を行っている。

 炭素14とは化学的な性質は一般的な炭素(炭素12)と同じであるが質量のみが異なる「同位体」と呼ばれる少し変わった炭素のひとつである。一定の速度で炭素から窒素へと変化して約5700年で半分になり,その際に放射線を出すので「放射性炭素」と呼ばれる。一定の速度で減少する性質を利用すれば有機物に含まれる炭素14年代の割合から,有機物が外部から炭素を取り込まなくなってからの時間,すなわち生物の場合はその個体や組織が死亡した時点からの経過時間を調べることが可能である。国立環境研究所では1997年に加速器質量分析装置(写真)という大型の分析機器を導入し,従来の方法と比べると1000分の1以下の炭素量で炭素14の高精度測定が可能となった。今回はこの装置を使って海水の年代を推定した結果を紹介する。

装置の写真
写真 加速器質量分析装置
(NIES-TERRA)の中心をなす。青色のタンク内で500万ボルトという高電位を発生しイオンを加速する。

 まず海洋科学技術センターとの共同研究として,現代の北太平洋で採取された海水に溶けている無機炭素の炭素14濃度を調べたところ,図1のように深層には非常に古い海水が存在することが明らかになった。日本近海を含む北太平洋ではこの古い深層水が表層へと湧き上がっている。もしも熱塩循環が弱くなったり強くなったりすれば,日本近海の海水に溶けている炭素14の濃度が変化するはずである。しかし,過去の海水を直接手に入れることは非常に困難であるため,海水から炭素を取り込んでいる生物で炭素14の濃度を測定することを試みた。幸い日本には1万年前頃から多くの貝塚遺跡が残されており,そこからは先史時代人が採取した貝殻などの海産物の残渣とともにシカやイノシシの陸上の動物骨も出土する。この両者を比較してやれば,表層の海水に溶けている炭素に,炭素14が減少した深層水がどの程度影響しているかを推定することが可能である。とくに北海道では縄文時代以降も狩猟採集を主たる生業とする文化が続いたため,近世まで連続的に動物遺存体を得ることが可能であり,深層水の沸き上がりにおける時間変化を復元するためには絶好の調査対象であることがわかった。私たちは,考古学者の協力を得て北海道から出土したオットセイとシカの骨で炭素14の濃度を比較することにした。

炭素14年代のグラフ
図1 西部北太平洋(北緯35度,東経155度)における見かけの炭素14年代
表層は核実験由来の炭素14のため,未来の年代(負の値)を示している。炭素14年代の単位(BP)は安定同位体である炭素13で同位体分別を補正し,西暦1950年から何年前かをあらわしている。

 図2に示したように,海水の炭素に由来するオットセイの骨の炭素14年代は,大気の炭素に由来するシカの骨の年代よりも見かけ上古い値を示すという予想通りの結果が得られた。この傾向は,縄文時代前期から近世に至るまで一貫しており,両者の違いは約800年であり,海洋表層全体の平均値(約400年)よりも明らかに古い値が見いだされた。しかし,今回分析した5つの遺跡の間では大きな時代差は見られなかったことから,北海道からサハリンにかけての北太平洋西部ではこの約7000年間,一貫して深層海水の湧昇の影響を強く受けていたと考えられる。今回分析した試料は比較的暖かい時期の遺跡であり,小氷期として知られる時期の試料は残念ながら分析されていない。今後,さらに様々な時期で結果が得られれば,深層水が表層水にどの程度影響したのか,その変化が地球環境や地域環境にどのように影響を与えたかをより詳細に知ることができる。

比較のグラフ
図2 北海道の遺跡から出土したシカとオットセイの見かけの炭素14年代の比較

 ところで,同じく遺跡から出土する古代の人々の骨では炭素14年代はどうなるのであろうか?海の幸も陸の幸も食べる人間は,大気と海水の両方の炭素を体内に取り込むことになる。縄文時代前期に形成された北黄金貝塚(北海道伊達市)から出土したシカとオットセイ,そして人間の骨試料で炭素14年代を比較してみた(図3)。上述したようにオットセイは深層の海水に由来する炭素を体内にたくさん含んでいるため,オットセイの骨の見かけ上の炭素14年代は古くなってしまう。一方でシカの炭素14年代は大気と同じ炭素14年代を示すはずである。陸の食料と海の食料をともに利用する人間では,その量に応じて炭素14の年代が変動するはずである。また反対に人間がシカよりもどの程度,炭素14が少ないかを調べてやることでその人がどの程度の海産物を利用していたのかを定量的に推定することができる。北海道では縄文時代の貝塚から沢山の海獣や魚の骨が出土する。海産物を大量に摂取している人類集団の場合,人骨の年代においてもどの程度の深層水の影響が現れるであろうか? 図3に示したように北黄金貝塚から出土した縄文時代前期の人々では,海水の古い炭素の影響を受けていないシカの骨より680年も古い年代が示されるとわかった。同時期に生息したオットセイでは860年の年代差が認められることから,これが当時の北海道周辺の表層水における炭素14年代であると考えられる。したがって,シカおよびオットセイと見かけの炭素14年代を比較することによって,北黄金遺跡に居住した縄文時代人の体組織を構成する炭素の約80%が海洋から由来すると推察された。これは北極に適応するイヌイットなどの狩猟採集民に匹敵する値である。

図3のグラフ
図3 北黄金金貝塚におけるシカ・オットセイ・縄文時代人の炭素14年代の比較

 今回は遺跡から出土した動物や人間の化石骨を地球化学的手法で分析した結果を紹介した。古人骨の形態を調べることで,その人々がどのような系統に属するのかを明らかにすることができる。また,ともに出土する動植物の遺存体や道具類の組成を調べることで,当時の人々の生活の様子をうかがい知ることは可能である。さらに,残存するタンパク質に含まれる炭素13や窒素15などの同位体の割合から当時の食生活を個人ごとに知ることも可能である。また,同じくコラーゲンの炭素14の割合からその個体が死亡した年代を知ることができる。そして,今回紹介したように動物や人間の骨の分析結果から動物や人間が環境の物質循環の中でどのような存在であったのかを知ることが可能である。例えば,オットセイやシカの炭素14年代からは過去の地球規模の海水循環がどのように変化したかを調べることができた。また,同じ視点から人骨の炭素14年代をみてやると先史時代の人々がどの程度海産物を利用していたのかを知ることが可能である。日本列島からは様々な環境に暮らした動物や人間の化石骨が出土する。これからの分析で先史時代の人々が暮らした古環境や,彼らの暮らしぶりに関して新たな局面が明らかになるかもしれない。

(よねだ みのる,化学環境研究領域)

執筆者プロフィール

今年で在つくば7年目。院生時代の専攻は先史人類学だったが現在は同位体生物地球化学へと研究テーマをシフトしている。今年の夏はシリア共和国でネアンデルタール遺跡の発掘調査に従事。