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(前)地球環境研究グループ統括研究官 安野 正之

 世界保健機関(WHO)在職中は,走って研究しているような状態で,国立公害研究所発足に参加してはという連絡を受けた時,すこし落ち着いて研究したいという気持ちで帰国することにした。しかしジュネーブの上司の許可がなかなか取れず,2ヵ月程遅れたため10月まで3ヵ月程待つことになった。WHO時代の8年間は公害とは無縁の国で蚊の生態研究に終始していたため,公害問題も,それに関する研究も知らず,まさに白紙からの出発であった。たまたま文部省の科学研究費による“人間生存と自然環境”の代表者である佐々先生の研究室の客員研究員にしていただいていた。この研究のまとめを先生お一人ですべてなさっているのを見てつい手助けをしたところ,まかされてしまった。このことは多少公害研究を知る機会とはなったが,自身どう進めるかまだ決まっていなかった。その後文部省の特別研究として発足した“環境科学”の世話も行きがかりから引き受けることになった。環境科学研究報告集のスタイルを統一し,シリーズの番号を与えることで全体をまとめることと,業績として引用できるような形式にした。このスタイルは公害研究所研究報告書にも反映させたが,今ではあまり評判がよくない。

 私が引き受けることになった水生生物生態研究室の目標は茅レポート(国立環境研究所設立準備委員会)に“水生生物生態系の動的平衡及び生態系に及ぼす環境悪化の影響の機序の研究”と書かれており,極めて単純であるが,明解であった。当時副所長の佐々先生の発案で霞ヶ浦の研究をかなりの人数で始めた。世界の生物生産量を測ることを目的としたIBP(国際生物学計画)が終わったころであった。そこではエネルギー換算のもととして炭素の固定量とその循環に焦点が当てられていた。そのことから,現東京水産大学教授の大槻晃氏の意見をもとに,霞ヶ浦研究では炭素でなくリンの循環をテーマにすることにした。しかしまたPattenの湖の生物生産の数理モデルも研究の参考になった。大槻氏の考えるスケールの大きな研究をしようという発想は大変な刺激になった。二人で当時の大山所長に霞ヶ浦に10m×10mの隔離水界を作りたいとお願いにうかがった。どのぐらい費用が必要かとの質問を受けて,数億円と言った覚えがある。大山先生はたいして驚きもなさらなかったが,一言君それはだめだと言われた。公害研究所がそれぐらいのスケールの研究ができなかったら存在する意味がないとわが同僚はつぶやいた。霞ヶ浦研究は一つの時代を作った。参加した専門の違う研究者から多くのことを学んだ。学際研究という言葉がいわれていたが,大学ではできず,この研究所では可能であった。その当時国内に生態系の一次生産者の研究者は数多いのに,二次生産者の研究者はほとんどいなかったため(日本だけの特色),そこから私自身の研究を始めるとともに国内の研究者の集まりのたびに動物プランクトン,ベントス研究者の育つべきことを呼びかけた。現在はかなりの研究者がそろってきている。信州大学の沖野外輝夫氏にもう心配しなくてもいいよと言われて久しい。研究所発足当時,何もかもカバーすることはできない。特色ある研究所にするには研究者の専門が片寄るのも止むを得ないという意見があった。これは現在も言われているし,もっともなことなので返す言葉はないが,研究遂行上支障をきたすような組織では困るのである。

 世界保健機関においてプロジェクト研究を行っていたが,事務処理をしたことはなかった。現在研究所の研究者がかなりの時間事務処理に追われているのは研究には負のコストで大変高くついていることと考えねばならない。プロジェクト研究は目標を明確にし,その達成度が見えるようにすべきである。年限を前もって決め,それを限度として新規のプロジェクトを提案しなければならないということはおよそ本来の主旨からはずれている。目標達成のめどがたたない場合には次期のプロジェクトを走らせる前に総括とフォローアップといった形の完結をはかるべきである。国立公害研究所の発足当時,国内外との交流の盛んな研究機関にしたいというのが願いであった。地球環境研究がはじまり,結果として国際化が進んでいる。研究所として国際的な評価を受けるためには,あるいは国際会議で相手を納得させるためにも地道なそして独創的な研究の積み上げが必要である。さらなる問題は研究所内でチームを作ることが次第に難しくなってきていることである。研究をしない研究所にならないことを願っている。

(やすの まさゆき,現在:滋賀県立大学教授)