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アンデス高地住民の生理学的適応像について−低圧・低酸素ストレスと血液中グルタチオンパーオキシダーゼ活性との関連−

経常研究の紹介

今井 秀樹

 南米大陸のアンデス高地に生活する人々の生態学的適応像についてはこれまでも国際生物学プロジェクト(IBP:International Biological Programme)をはじめ数多くの研究がある。標高4,000m付近の環境は低酸素・寒冷・乾燥・強紫外線などが特徴的であり、とりわけ低酸素ストレスは高ヘモグロビン血症、樽胸(barrel-shaped chest)など生理学的、解剖学的特徴との関連でとり上げられてきた。ところで、ヘモグロビン濃度の上昇は酸素結合ヘモグロビンの数の増加とともに、酸素と結合していない遊離ヘモグロビンの数の増加をももたらす。遊離ヘモグロビン割合の増加によって血液中あるいは組織中に活性酸素種が生成されるという報告がいくつかある。つまり、高地に居住している人々の生体内では、低酸素環境への適応の副作用としての酸化的ストレスのこう進という逆説的な現象が起きていることが予想される。

 筆者は大学院在学中に上記ボリビアアンデス高地に生活する人々に関する人類生態学的調査に参加する機会を得た。その折に採取したそこに生活する人々の血液中のグルタチオンパーオキシダーゼ活性及びその活性中心である必須微量元素セレンの濃度を測定し、それらの変動と高地環境への生体適応との関連について検討したので報告する。

 高地居住者の平均血液中ヘモグロビン濃度は成人男性で19g/dlであり、比較のために調査した低地(標高300m、ボリビア国内のアマゾン熱帯地域)居住者の13g/dlより高い値であった。高地居住者について調査時に行った食事調査から計算された1日当たりのセレン摂取量は40μg前後であり、血液中のレベルは約140ng/mlであった。セレン充足地域とされている場所(例えば日本、米国)に生活する人々の摂取量は1日100μg程度、血液中の濃度は150〜250ng/mlと報告されている。したがって、今回のボリビア高地居住者についてはセレン摂取量は低いにもかかわらず血液中のレベルはそれほど低くなっていない。高地居住者と低地居住者の血液中グルタチオンパーオキシダーゼ活性を比較すると、血液1ml当たりのグルタチオンパーオキシダーゼ活性は高地居住者において高い値であった。ところが、ヘモグロビン1g当たりの活性値で比較すると低い値を示した。つまりヘモグロビンの増加に伴って単位血液当たりの酵素活性値は上昇しているのであるが、その割合はヘモグロビン濃度の増加に見合ったものではないことが明らかになった。日本人成人男性との比較も行ってみたが、全血中セレン濃度は日本人の方が高いレベルであり、グルタチオンパーオキシダーゼ活性(血液1ml当たり)はボリビア高地居住者において高い活性値であった。血液中のセレン濃度は食事からのセレン摂取量を反映していると考えられるので、この結果は高地居住者はセレンの栄養状態が日本人ほど良好ではないにもかかわらず、その血液中に生じる活性酸素種を消去する機構が生体内においてこう進されていることを示唆している。

 富士山の頂上よりも高く、酸素も希薄なアンデス高地になぜ人間が居住するようになったのかは明らかではない。酸素の問題のみならず生産あるいは住環境など人間の生業活動の様々な面で都合の悪い環境であり、実際にその地において人々の暮らしを垣間見た私にはこのような環境の下で人々が敢えて生活と再生産を繰り返していることが極めて奇異に感じられる。しかしインカ帝国よりも遥かにさかのぼる以前からモンゴロイドはここに生活の場を築き、のちに侵略者としてヨーロッパから来た白人も5世紀にわたってアンデス高地に居住している。もちろん戦前あるいは戦後に南米に渡った日本人移住者とその子孫も生活を続けている。現在地球全体で標高3,000mを越す場所に生活する者の数は2,500万人と推計されている。

 今回の調査結果はその生理的適応像のほんの一端をとり上げたに過ぎないが、人為的技術的対応が不可能である低酸素ストレス状態に対するヒト生体の生理学的適応像についてのさらなる研究が望まれる。

(いまい ひでき、地域環境研究グループ都市環境影響評価研究チーム)