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退任にあたって−生物関連研究の歴史を振り返る

論評

前生物圏環境部長 菅原 淳

 昭和50年3月、長靴を持って着任以来、17年が過ぎ去りました。思い返してみると、いろいろなことが走馬灯のように、脳裏をかけめぐります。

 開設当時は、研究所前の西大通りは泥んこ道で、通行不能でした。公務員宿舎から研究所のマイクロバスで、蛇のような道をくねくね通って、コジュケイ親子やキジ夫婦達と毎日出会いながら通勤しました。私が大学在籍中に、のどから手がでるほど欲しかった研究機器は、すべて最新型のものが揃っていました。研究費も潤沢でした。足りないのは(現在でもそうですが)研究者だけでした。

 やがて工事中だったファイトトロンが完成し、世界に誇るこの超一級の施設を使って、大気汚染物質の植物影響に関する研究が始まりました。先発の農水省研究所や地方公害研究所や大学などから、すでにかなりの成果が報告されていましたが、これらに追い付き追い越せと必死に頑張りました。毎日が本当に楽しかった。高性能の施設を使っての研究ですから、国内外の他の研究グループでは立案できない、新しい計画で、再現性のあるデータがどんどん得られました。これらの成果を邦文だけでなく、英文の報告書にまとめて出版しました。オクスフォードやミュンヘンでの国際シンポジウムでも発表し、“大気汚染の植物影響に関しては、公害研に聞け”といわれるほどの世界的トップレベルになることができました。

 ファイトトロンに続いてアクアトロンが完成し、有害化学物質の生態系への影響解析の研究が始まりました。現安野正之部長が中心となって展開され、実験室での毒性試験と野外調査とが並行して行われました。その頃、環境庁は、通産省、農水省、厚生省、建設省の狭間に合って、他の省庁と摩擦なく、独自に実力を発揮できるのは、自然環境保全行政しかないような状況にあったので、生態系影響評価の研究への期待は大きく、評価のクライテリア確立に努力が注がれました。

 年月の経過とともに研究所も成長し、研究内容も、公害の対症療法的研究から快適環境創造の研究へと向かい始めました。この間に、当初の計画になかった微生物系統保存施設の重要性を説いて設置に成功し、渡辺信室長の努力の結果、環境微生物の国際的分譲、遺伝子資源確保の両体制が確立されて、国際的にも認められる施設となりました。また、遺伝子工学の著しい発展に遅れを取らぬように、研究体制の確立に取り組み、遺伝子組換え技術の環境研究への導入を行い、さらに遺伝子組換え体の環境での利用に際して、生態影響評価を環境庁が行うことを支援できるように取り組みました。近藤矩朗総合研究官が中心となって推進しており、現在、遺伝子工学実験棟が建設中です。一方、自然環境保全研究体制の確立にも努力が払われ、奥日光に環境観測所が建設され、環境要因の常時測定と同時に、奥日光周辺の環境調査の拠点として利用されています。

 さて、現在では、世界は大きく様変わりし、地球規模の環境問題が脚光を浴びてきました。研究所もこれに積極的に対応できるように、公害研究所から環境研究所への脱皮を行い、大規模な組織改革を行いました。地球温暖化、オゾン層破壊による有害紫外線量の増加、森林減少、砂漠化等々、人間の生活環境としての生物圏への影響解析の研究は、ますます多様性を帯びてきています。生物関連研究者への比重は増加の一途です。研究所として今後、自然環境保全研究体制の確立を含めて、生物関連研究者の増員を考えるべき段階にあると感じています。

(すがはら きよし、現在:近畿大学九州工学部教授)

特別講演会にて(平成4年3月24日)