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環境科学における環境保健研究のあり方

遠山 千春

 環境保健(健康)の研究とは,環境中の環境有害要因がヒトの健康に及ぼす影響と,その影響を引き起こすメカニズムを明らかにする研究を言う。研究の目標は,人が安全な環境で安心して暮らせることを保証することにある。政策面で各種の基準を決めるために不可欠な環境リスク(有害な事象の程度とその事象が生じる確率)に関する情報を提供することも大きな役割の一つだ。このように環境保健(健康)研究は,人類の生存の根本を支える重要な分野を含んでいる。環境を人為の対局にある自然環境ととらえて研究対象とする学究的な学問のあり方も当然あり得るだろう。けれども,人間の存在を視野に入れれば,環境とは私たちを取り巻く生活の場の概念にほかならない。たとえば,人が呼吸する大気に乏しい成層圏の空間が,地球科学(earth science)ではなく環境科学(environmental science)の対象としての意味をもつためには,その場における事象が人間の生命や生活かかわりを持ってくる場合であることは自明の理だろう。環境保健分野で言うならば,個人,集団,あるいは会社などの組織体を含む人間活動による環境への働きかけに伴う負荷が,ヒトの適応・順応機能を超えた何らかの影響をもたらす場合が研究対象となる。

 ところで,設立以来,我が研究所における環境保健の対象としてきた要因は,大気汚染物質(亜硫酸ガス,窒素酸化物,オゾン,ディーゼル排ガス,さらにPM2.5と呼称される微粒子),重金属(カドミウム,水銀,ヒ素),有機塩素系化合物(ダイオキシンやPCB,農薬),これらの一部も含むが,「環境ホルモン」様物質,さらには,物理的要因(騒音,紫外線,温熱,電磁場など)など多岐にわたる。私見だが,これらに加え,今後,研究対象となる要因(群)として,化学物質過敏症にかかわる様々な物質(群),「環境ホルモン」作用の面からも検討が不十分な残留性の高い農薬や園芸用殺虫剤・除草剤などがあろう。さらに,最近になって新たな毒性や低用量での影響が疑われ始めた結果,安全基準の見直しが国際的にも検討されている物質として,PCB,有機水銀,カドミウムがある。

 これらの要因の特性に応じて作用メカニズムは多様である。それぞれの特徴に応じた研究方法論が必要となり,学問的には奥深く興味深い研究対象もいろいろと見いだされている。ただ,研究対象とした要因に関する社会的関心が低くなれば,社会的にプライオリティが高い別の環境問題研究への研究面からの取り組みを求められることもしばしば起こってくる。それでは,新たな課題に対しては,どのように対応すればよいのだろうか。

 研究対象となる要因が変わったとしても,新たな問題にしなやかに対応するための研究基盤は欠かせない。その場合,リスクを推定するための学術的知見,そしてその解析技術の妥当性に関する情報を提供する環境保健研究にとって,毒性学と疫学が重要な方法論を提供する。前者は,本来の対象であるヒトに代わる実験モデルとしての動物や細胞などを用いる実験研究であり,後者は,主としてヒトの集団を対象としたフィールド調査や統計に基づく研究だ。そして,この二つの学問分野を支える基礎科学分野として,研究者の専門性に対応して,免疫学,生化学,病理学,内分泌学,生理学などライフサイエンスの基礎学問分野がある。これらの多岐にわたる学問分野における展開を常にウオッチし,あらたな学術的知見や方法を研究に取り入れていくことが,環境保健研究に深みをもたらすために不可欠だ。このことは,単なる毒性試験に終わることなく基礎研究分野にもインパクトがある学術的発信につながるだろう。私たちは,対象とする事象がどのように変化しようとも,学術的にも水準が高い研究を保証し,かつ,生活者のニーズに依拠した研究を展開してきたつもりだが,これからもがんばりたいと思う。読者諸氏の建設的なご叱正とご指導を頂戴できれば幸甚だ。

(とおやま ちはる,環境健康研究領域長)

執筆者プロフィール

かつてパプアニューギニアの密林で2ヵ月ほど現地の人々と一緒に暮らした。プライマリ・ヘルスケアもおぼつかない中での穏やかで人間的な暮らしと,他方,文明の利器を駆使した個人や国家レベルでの暴力が横行する現代社会の有様から受ける衝撃が,環境と健康にかかわる問題を考える際の物差しとなっている。