ユーザー別ナビ |
  • 一般の方
  • 研究関係者の方
  • 環境問題に関心のある方

国立環境研究所での25年間を振り返って

(前)社会環境システム部長 後藤 典弘

 本年3月末日をもって,四半世紀余りの長きにわたって,皆様にお世話になった研究所を定年退職しました。正直言って,感慨無量のものがあります。

 この間,私自身がどのように研究所に貢献することができたかは皆様の評価に委ねるとして,ここでは,どういう経緯で研究所に参画することになり,何をしてきたのか,またどんなことを思ったのかを短く振り返ってみたいと思います。

 前身である国立公害研究所が発足したのは1974年3月15日ですが,その数カ月前のある日,初代所長である大山義年先生(当時政策科学研究所理事長)から,仕事の打ち合わせ後,突然「今度できる環境庁の研究所の所長になることになった。ついては,君も来たまえ。」と言われました。当時,私は通産省工業技術院のごみリサイクル技術研究開発の大型プロジェクト担当で行政の手伝いをしており,先生はプロジェクトの委員長でした。先生は私の専攻の化学工学分野では日本での大御所でしたから,否応もなく,これもご縁と決心をいたしました。しかし,工技院がプロジェクトを立ち上げたばかりということもあり,その都合で私が正式に研究所に異動したのは75年1月でした。その間,自身がまだ職員でもないのに,所長室(当時は霞ヶ関の環境庁にありました)で,将来部下になる方の人事面接に内藤先生(現京都大)と一緒に立ち会ったりなど,面白い経験もさせていただきました。ともあれ,こうして研究所には,総合解析部第二グループ主任研究官ということで入りました。

 大山先生は,入ってくる人ほとんどに,二つのことをおっしゃったと記憶しています。一つは,研究所を世界で初めての環境(公害という言葉がお嫌いでした)の総合研究所に創り上げるために尽力すること,もう一つは,あまり長くいないで5年位で出ていく気持ちでやることでした。そうおっしゃったご自身は,77年7月16日に現職のまま急逝されてしまいました。

 研究所での初めの10年くらいは,私を含めてみんながそれぞれの持ち場で研究所をどう創り上げていくかに一所懸命でした。総合解析部は非実験部門ということもあり,とりわけ何をどう研究するか随分いろいろな模索をしました。私自身は,引き続き廃棄物(ごみ)のリサイクルやその環境影響等について多くの時間をさいていましたが,行政からのニーズを踏まえ,他にアセスメントの研究やアメニティ,はたまた個人的には環境研究の体系や方法論等にも興味を持ってやってきました。私の研究上の興味は,その後,ごみ問題→生産・消費パターン変更→産業社会転換へと移っていきましたが,その背景には80年代初頭からの地球環境問題が常に頭にありました。今では,世の中の多くの人が産業界を含め持続可能な循環型社会への方向へ歩み始めたのは,同慶の至りというべきです。

 今想い出してみて,2年半に及んだ準備で行われた平成2年の研究所の組織改革の機会に一部長として自分なりに精一杯の努力が出来たのは,とても幸せであったように思います。初代以来,この研究所は,幸運にも所長・副所長として優れた指導者に代々恵まれてきたように思います。この方々のこれという時の舵取りこそが,研究所の今日をあらしめているように思います。

 研究所は,現在,独立行政法人化への準備の中で忙殺されています。いま私は,大山先生が,われわれのような研究所が行政や国民に本当に貢献できるためには,逆説的だが,行政から精神的に独立していることが大変重要だとおっしゃっていたことを想い起こしています(例えば,“本庁”という言葉を使うななどとおっしゃられました)。この意味では,今私たちは真に自主独立したあるべき方向に進んでいるのだと思います。

 とりとめなく記しましたが,最後に,研究所でこの長きにわたりずっと楽しくやってこられたのは,今はOBとなられた方々を含めご交誼頂いた幾多の皆様のご厚情,ご支援の賜物と衷心より感謝の言葉を申し上げたいと思います。誠に有り難うございました。

(ごとう すけひろ)

執筆者プロフィール:

東京蒲田生まれ。高校から早稲田に9年,アメリカの大学は7年有余。帰国後の3年余に2回職場が変わったが,以後はずーっとつくば。あまり動きたがらない生来のものぐさゆえか。研究所では,総合解析部→環境情報部→社会環境システム部と異動した。