ユーザー別ナビ |
  • 一般の方
  • 研究関係者の方
  • 環境問題に関心のある方

社会的存在としての環境

論評

大井 紘

 環境問題は優れて社会的問題である。あるいは,社会的問題でなければ環境問題というほどのことではない。そういう次第で環境問題については,社会の中に位置づけられた問題としてその全体像を把握しないと,原因も特定できなければ,対策も立てられず,救済策も定まらないということになりがちである。ところが,全体を把握するためには,全体を構成するはずの部分を調べていかなければならないという主張にもとづいて,多くの環境研究は部分問題,さらにその部分問題 … についてとり行われる。そうして,やっていることと原問題との関係が見えなくなってしまうことがしばしばではなかろうか。もっとも,社会とか全体とか言わなくても有用な環境研究はいくらでもある。有毒性の知られたある化合物の濃度分布が分かれば,十分に社会的な影響力を及ぼす。一方,政策○○研究などと称するものにときたま,関連用語を散りばめただけの茫漠たるものがあるのも事実である。

 全体を把握するのだといっても,何をしたいかによって,あるべき全体の方も変わってくるはずである。目的に応じてどのくらいの大きさで対象を捉えるか,どの視点から見るべきかが違ってくる。システム論でいうシステムとそれを取り巻くものとの境界をどう認識するかである。そうして,全体が見えてきたとして,その内部に構造を与えなければならない。それではどうするのか。

 具体的なことを考えよう。音にかかわる問題を例にとる。音の物理的なレベルの大きさと騒音とを一対一に対応させようとしても,うまくいかないことがある。そうやったのでは,電車の轟音の合間にやっと聞き取れる隣家の空調機音にいきり立っての騒音の訴えを理解できず,ロックコンサートの熱狂も説明できないのだから。そこで「環境は主体によって意味づけられ,構成された世界である」とする環境意味論の登場となる。だが,それはいままでのところ決して説得力のある論理を構築したとは言えない。たしかに,空調機音の隣人と長らく親しくつき合っていたのに,ふとしたことで冷たくされた気がして以来その家のすることなすこと気にいらなくなってしまって,微かな空調機音でも気に障るようになったが,株を持っている電鉄会社の方はバンバン儲けて欲しいので,たいていの走行音にはわくわくこそすれうるさくなどならないというようなようなことがあるのだと見聞きして知っているとか,また,溢れ返る音に陶酔するのもロックが三度のメシより好きなればこそだというようなことを体験し自覚していれば,環境意味論の説くところは理解しやすい。そのように,意味論的考え方に共感するものを持つ人には,今まで提出された意味論でも考え方を理解し明確にするうえで有益である。

 しかし,「環境とはその中に住む主体とは無関係に存在する周囲の物理的状況であり,それが主体に対して一定の刺激として作用する」という環境機械論信奉者を納得させるのは,今までの環境意味論では容易ではないようである。環境意味論の論理構成がいかにも不十分なことは,騒音に対立するものとしての快い音を物理的な存在として同定しようとしているらしい「良い音論」に相対したときに強く感じる。その良い音論は良い音の特性を音の物理的要素には還元しないのだから。そうして,良い音論はある種の音を好ましいと思う文化を共有する人々を多分想定している点においては,意味論の立場に立っているともみられるのだから。

 始めに言った全体の構造づけの仕方という点からいえば,音についての説得力のある意味論を作るためには,おそらく,文化とそれを共有する人々の集まりとの双方を多重構造で捉えなければならないのだろう。さらに,音の存在している場の公共性などの特性,音を発するものと受ける者との立場および相互の関係,音の発生させられる目的と意義の認識,音に対する態度における多数派と少数派の対立の取り扱いなどが議論されなければならないのであろう。そうして,それらの論点の構成が必要なのである。このように,音問題だけをとっても全体的な把握というのは,これからの課題なのである。

 このように環境を問題に応じた全体として把握し構造づけること,言い換えれば,環境を目的に応じたシステムとして把握し分析するということは,相当にむずかしい。それは,実のところ始まったばかりの課題なのである。

(おおい こう, 社会環境システム部上席研究官)

目次