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「酸性雨」の研究—化学的視点からの課題

酸性雨シリーズ(8)

福山 力

 酸性雨が深刻な環境問題の一つとして認識されるに至ってからほぼ20年が経過して,この間膨大な量の研究が積み重ねられてきた。しかし問題の本質に近いところで意外に理解が欠落している部分もある。酸性雨とはいうまでもなく水素イオン濃度が高い,言い換えればpHが低い雨のことであるが,それではpHがどの程度低下したときに「酸性化した」と判断するのか,となると,実はこのような基本的な基準からして確定されているとはいえないのが現状である。通常は大気中の二酸化炭素と平衡にあるときの値5.6よりも低いpHの雨が「酸性雨」と定義されている。しかし降水酸性化を人為汚染と捉え,これらを何らかの形で規制しようとする立場からはこの定義は全く不十分である。酸性化の主因物質である二酸化硫黄の放出に対して火山などの自然発生源の寄与も無視できないからである。当面自然現象の制御は問題外であるとすると,規制の対象となる酸性化の判断基準はpH=5.6よりも低いところにあることは確実であるが定量的な知見は得られていない。

 さて「酸性雨」を文字どおりに考えた場合でさえすぐに上述のような問題に突き当たるのであるが,はるかに重要なのはこの三文字に囚われるととんでもない誤りを犯すことになるという点である。まず酸性雨の生成過程について見ると,水素イオン濃度はあくまでも液相におけるイオンのバランスの結果として決まるものであるから,酸性物質のみに目を奪われるのは明らかに片手落ちである。実際降水中に取り込まれた酸性物質の約70%は地表に降下する前にアンモニアにより中和されるといわれている。また土壌や道路起源の粒子状物質から溶け込む金属酸化物も中和作用を持つため,pHだけから見れば中性に近いけれど,汚染度の高い雨が降るという例もある。したがって問題なのは酸性化の過程ではなく汚染の過程である,という至極当然の帰結が得られるがこのことをここで改めて指摘するのは決して無駄なことではあるまい。

 次に環境への影響を考慮に入れるとさらに広い視野が要求される。よく知られているように,酸性雨が環境問題として顕在化した契機の一つはヨーロッパにおける森林の衰退であった。しかし大気からの要因に限って考えてみても,植物への影響は単に「酸性」の「雨」だけによってもたらされるのではない。有害なのは水素イオンよりも,むしろオゾンをはじめとする酸化性物質ではないかということが最近示唆されている。後者は降水中に含まれるだけでなく,乾性沈着によっても植物体へ輸送されるので,湿性および乾性沈着双方を総合した把握が必要である。これらのことは本シリーズ(2)(8巻1号)で植田によって指摘されているとおりである。すなわち研究の対象とするべきものは雨だけではなく「降下物」一般であり,その属性として「酸性」に加えて「酸化性」をも問題とする必要がある。とくに乾性沈着は「降水によらない地表面への輸送過程」という定義からわかるように物理的には概念自体が漠然としたものでありその研究も極めて原始的な状況にある。また大気中の酸化性物質としてはオゾン以外に過酸化水素や有機過酸化物にも目を向けなければならない。

 まとめとして化学に関連した立場から取り組むべきポイントを列挙してみよう。
1)酸性物質の起源:自然起源 / 人為起源の割合;自然酸性水準の評価。
2)酸性物質の生成過程:気相,液相および不均一反応。
この項目は最も研究が進んでいる領域であるが,それでも海塩等の粒子状物質が関与する不均一反応の知見は十分ではない。
3)中和過程:アンモニアおよび粒子状物質。
4)酸化性物質の生成と挙:O3,H2O2,有機過酸化物。
5)乾性沈着:粒子およびガスの沈着速度の測定,降下量測定法の検討。

 結局のところ,現在既に人口に膾炙してしまった観のある「酸性雨」というキーワードは問題のほんの一面だけを表しているにすぎず,今後要求されるのは「多相(multi-phase)大気化学」と呼ぶべき広い裾野からのアプローチである。

(ふくやま つとむ,大気環境部エアロゾル研究室長)