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2015年8月31日

ヒ素化合物の化学形態と生体影響

特集 ヒ素の健康影響研究
【環境問題基礎知識】

小林 弥生

 ヒ素の毒性が高いことは古くから知られており、古代ギリシアや古代ローマ時代にすでに暗殺や自殺に用いられていたと言われています。日本でも、森永ヒ素ミルク中毒事件や和歌山毒物カレー事件等のヒ素中毒事件が起こっています。一方で、毒と薬は表裏一体と言われるように、古くから農薬、医薬品として使用されてきました。中国医学では、硫化ヒ素化合物が解毒剤や抗炎症剤として製剤に配合され、有機ヒ素化合物であるサルバルサンは、ペニシリンが発見される以前は梅毒の治療薬として用いられました。最近では、2004年に無機ヒ素化合物である亜ヒ酸製剤が白血病治療薬として厚労省より承認され、再発又は難治性の急性前骨髄球性白血病に使用されています。また、有機ヒ素化合物のダリナパルシンは、末梢性T細胞リンパ腫治療薬として米国で実施された第II相臨床試験において、リンパ腫、特に再発・難治の末梢性T細胞リンパ腫に対する有効性が示されました。ヒ素は地殻中に広く分布しており、火山活動等の自然現象や微生物による土壌からの溶出等の生命現象により環境中に放出される為、土壌や水中には天然由来のヒ素が含まれています。ヒ素は単体ヒ素、無機(炭素を含まない)および有機(炭素を含む)ヒ素化合物として自然界に存在しているため、水、土壌、大気、食品中にも存在し、我々は食品や飲料水から日々ヒ素化合物を体内に摂取し、代謝および排泄しています。ヒ素の毒性は、一般的には有機ヒ素化合物よりも無機ヒ素化合物の方が、また5価よりも3価ヒ素化合物の方が高いことが知られています。このように、ヒ素の毒性はその化学形態により大きく異なるため、生体への影響を評価するためには、ヒ素の総濃度だけでなくヒ素の化学形態を明らかにすることが重要となってきます。

 図1に自然界および生体内に存在するヒ素化合物の一部を示しました。食品中には無機および有機ヒ素化合物が含まれています。特に魚介類や海藻類は陸上生物よりも高濃度のヒ素を含んでいます。しかし、魚介類や海藻を好んで食する習慣をもつ我々日本人において、これらの海産物摂取によるヒ素中毒事例は現在のところ報告されていません。それは、魚介類には主にアルセノベタイン、海藻類には主にアルセノシュガーといった、無機ヒ素化合物よりも毒性の低い有機ヒ素の形態で海産物中に存在しているからです。例えば、1985年に発表されたKaiseらによるマウスをもちいた急性毒性試験(急性毒性の強さの尺度としてLD50(50%致死量)が用いられる)の結果によると、三酸化二ヒ素(水溶液中では水和して3価無機ヒ素(亜ヒ酸; iAsIII)として存在します)のLD50は34.5 mg/kg、一方で有機ヒ素化合物であるアルセノベタインは10 g/kg以上の経口投与群でも死亡がみられませんでした。1983年にVahterらは、ヒトにおいて投与されたアルセノベタインの大部分が48時間以内に尿中に排泄されることを報告しています。しかし、有機ヒ素化合物であるアルセノシュガーの毒性や体内動態に関する情報は、無機ヒ素化合物に比べて限られています。2005年に報告されたRamlらの研究によると、アルセノシュガー(oxo-Gly)(図1アルセノシュガー骨格中のR1がOH、R2がOCH2CH(OH)CH2OH)をヒトに経口投与した場合、投与したヒ素の81%が尿中に排泄され、少なくとも12種類のヒ素代謝物が検出されました。細胞を用いたアルセノシュガー(oxo-Gly)の毒性試験はいくつか報告があり、いずれも無機ヒ素化合物より毒性が低いことが報告されていますが、アルセノシュガーは異なる側鎖を持った化学種が存在するため、それらの毒性や体内動態など不明な点が多く残されています。

図1(クリックすると拡大表示されます)
図1 自然界および生体内に存在するヒ素化合物の例示

 飲料水には主に無機ヒ素化合物が含まれています。生体内に摂取された無機ヒ素化合物はメチル化代謝されて、主として有機ヒ素化合物である5価のジメチルアルシン酸(DMAV)やモノメチルアルソン酸(MMAV)として尿中に排泄されます。米国国立労働安全衛生研究所が1976年に公表したラットを用いた毒性試験では経口投与でiAsIIIではLD50が41 mg/kg、MMAVでは790 mg/kg、DMAVでは2,600 mg/kgとなっています。このように、尿中に排泄されるMMAVやDMAVの毒性がiAsIIIよりも低いことから、メチル化はヒ素の解毒機構であると考えられてきました。ところが、代謝の過程で生成する有機ヒ素化合物のモノメチルアルソナス酸(MMAIII)やジメチルアルシナス酸(DMAIII)の毒性がiAsIIIよりも高いことが報告されたことから、近年、メチル化代謝はむしろ代謝活性化機構であると考えられるようになってきました。また、ヒ素汚染地域の住民の尿からはジメチルモノチオアルシン酸(DMMTAV)などの含硫ヒ素化合物が検出され、DMMTAVは5価の有機ヒ素化合物でありながら、無機ヒ素化合物よりも毒性が高いことが報告されています。この他にも、動物実験の結果から有機ヒ素化合物である3価ヒ素化合物-グルタチオン抱合体が胆汁中に排泄されることが明らかとなっています。このように、高性能の分析機器の開発や分析技術の進歩から無機ヒ素化合物の代謝過程において、生体内で様々な中間代謝物が生成することがわかってきました。

 ヒ素の毒性はヒ素化合物の化学形態に依存することから、ヒ素による生体への影響を評価する上で、ヒ素の濃度だけでなく、化学形態も明らかにすることが重要となります。この目的に用いられるのが元素の化学形態別分析と言われる手法です。ヒ素の化学形態別分析には、高速液体クロマトグラムで試料中のヒ素化合物を分離し、元素を特異的にまた高感度に検出できる誘導結合プラズマ質量分析計に直接導入する手法が最も汎用性が高い分離・検出手段として使用されています。一方で、この手法は元素特異的に検出するため、標準物質のない未知の化合物の同定ができないことが最大の欠点です。この欠点を補い、未知の化合物を同定するために相補的に質量分析装置が用いられます。

 近年、海産物から種々の脂溶性ヒ素化合物(アルセノリピッド)が報告されています。これらの中にはアルセノシュガーが結合しているリン脂質も報告されていることから、その生合成についても注目されています。しかしながらそれらの毒性に関しては現在のところ未解明です。ある種の海産物では、無視できない量のアルセノリピッドが含まれていることが報告されていることから、今後体内動態および毒性についての知見の蓄積、生体への曝露および影響評価が必要となります。

(こばやし やよい、環境健康研究センター 分子毒性機構研究室 主任研究員)

執筆者プロフィール

筆者の小林弥生の写真

ヒ素化合物の多様な化学形態と生体への作用の違いに興味を持ち早十数年。追いかければ追いかけるほど、知れば知るほど謎は深まるばかり。ころころ変化して気難しいけれど、気付いたらどっぷりとその魅力にはまっていました。

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