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2015年8月31日

長期間の無機ヒ素曝露によるリンパ球での細胞老化の誘導

特集 ヒ素の健康影響研究
【研究ノート】

岡村 和幸

はじめに

 環境化学物質であるヒ素は、古くは暗殺のための道具(現代では容易に検出できるため愚者の毒と呼ばれています)や化学兵器(ジフェニルアルシン、トリクロロアルシン)として使用されてきました。現在私たちの身の回りでは、ヒ素は一部地域の地下水、石炭、温泉水中に存在するほか、ガラスの消泡剤、魚、米、海藻中に含まれ、急性前骨髄性白血病の治療薬としても使用されています。特に無機ヒ素による地下水汚染は、バングラデシュ、中国を初めとするアジア諸国やアルゼンチン、チリなど世界各国で深刻な健康被害を引きおこしています。具体的には、無機ヒ素が含まれる地下水を継続的に摂取することで慢性ヒ素中毒がおこり、その症状として皮膚の色素脱色や角化症、皮膚、肺、肝臓など各臓器の発がん、免疫抑制が知られています。

 私は慢性ヒ素中毒による症状の中でも、免疫抑制の機序を研究してきましたので、今回はその成果をご紹介します。免疫はウイルスや細菌など、生体が異物と判断するものから身を守るために必要な生体のシステムです。その種類は大きく分けてふたつあり、特異性は高くないですが異物に対してすぐに反応する自然免疫と、異物の特徴を認識して特異的に反応する獲得免疫があります。ヒトを含む脊椎動物は特に獲得免疫を発達させてきましたが、この際重要な役割を果たすのがリンパ球です。成熟したリンパ球は「抗原」として認識した異物によって刺激され、活性化、増殖をし、炎症性サイトカインや、それぞれの抗原に特異的に反応する「抗体」というタンパク質を産生し、生体を守ります。このリンパ球の増殖が抑制されると、免疫抑制につながります。私達の研究室ではこれまでに、無機ヒ素曝露による免疫抑制の作用機序として、リンパ球の増殖抑制が関与することをマウスの実験で明らかにしています。そこで、どのように増殖抑制がおこるのか、さらに詳細なメカニズムの検討を行うために研究を行いました。

長期ヒ素曝露により誘導されるリンパ球の細胞老化

 細胞は細胞周期を繰り返すことで増殖します。細胞周期はDNA合成準備期のG0/G1期、DNA合成期のS期、分裂準備期のG2期、分裂期のM期に分類され、G0/G1期 → S期 → G2期 → M期 → G0/G1期・・・と繰り返されます。この繰り返しの途中に何か所かチェックポイントがあり、分裂に不適と判断された細胞は、途中で細胞周期が停止することがあります。また、細胞内のDNA量は、G0/G1期を1とすると、S期の間に1から2に増え、G2/M期では2の状態を保ちます。M期に細胞が分裂すると、1細胞あたりDNA量は1に戻り、細胞周期はG0/G1期に戻ります。これまでに当研究室において、リンパ球はヒ素が含まれる培地で24時間培養すると細胞周期進行が阻害され、G0/G1期の停止によって細胞の増殖が抑制されることを明らかにしました。しかし、慢性ヒ素中毒は長期間の継続した曝露によっておこるので、その機序を明らかにするためには細胞への曝露実験においても長時間の曝露が必要であると考えました。そこで、これまでの24時間よりも長い8日間、14日間のヒ素曝露(長期ヒ素曝露)実験を行い、24時間曝露の結果と比較しました。

 その結果、長期ヒ素曝露によって、24時間ヒ素曝露の際に観察されたG0/G1期での細胞周期の停止が顕著になりました(図1a)。また、顕微鏡観察によって細胞の形態を経時的に観察したところ、24時間曝露では曝露なしと比較して形態学的な変化は全く見られませんでしたが、長期ヒ素曝露によって細胞の巨大化や扁平化が観察されました(図1b)。これらの特徴は不可逆的な細胞増殖の停止である細胞老化(セネッセンス)の特徴と一致していました。さらに、その後の研究で長期間ヒ素曝露でのみ各種の細胞老化マーカーが検出されることを明らかにしました。以上のことから、リンパ球への長期ヒ素曝露は細胞老化を誘導することが示されました。

図1
図1 長期ヒ素曝露によるリンパ球のG0/G1期増加と形態学的変化
a) リンパ球における長期ヒ素曝露による顕著なG0/G1期停止の増加
縦軸は細胞数、横軸はDNA量です。細胞内のDNA量が異なることを利用して細胞周期を測定しており、細胞周期が停止すると、停止した期の細胞の割合が増加します。リンパ球へ長期(8, 14日間)ヒ素曝露を行うと、短期(24時間)曝露よりも顕著なG0/G1期の停止が観察されました。
b) 長期ヒ素曝露による形態学的変化
長期(8, 14日間)ヒ素曝露を行うと、短期(24時間)曝露では見られなかった細胞の巨大化や扁平化といった形態学的な変化が観察されました。

長期ヒ素曝露によるリンパ球のDNA損傷誘導

 次に、長期ヒ素曝露によってどのようなメカニズムで細胞老化が誘導されるか検討を行いました。細胞老化は大きく分けて「複製老化」と「早期細胞老化」に分類されます。前者は生殖細胞を除くすべての体細胞において、細胞分裂に伴ってDNAの染色体末端に存在するテロメアと呼ばれるTTAGGG(哺乳類の場合)の繰り返し配列が短縮し、ある程度まで短くなると増殖を停止する現象です。後者は、酸化ストレスやDNA損傷によって、テロメア短縮による増殖停止がおこるよりも早期の段階で増殖の停止がおこる現象です。今回観察された現象は、ヒ素曝露を行った細胞では、ヒ素曝露を行わなかった細胞よりも細胞分裂の回数は少ないにも関わらず、細胞老化がおこったことから、早期細胞老化であると考えられます。ヒ素は他の細胞においてDNA損傷を引きおこすことが報告されていたので、細胞老化を誘導する要因として特にDNAの損傷に着目しました。DNAの損傷が誘導される場合には、DNAの損傷を誘導する因子が増強すること、もしくはDNAの損傷を修復する能力が低下することが要因として考えられます(図2a)。そこで、DNAの損傷を誘導する要因として、DNA脱アミノ化酵素に着目しました。脱アミノ化酵素はDNAの塩基配列のうち、シトシンを脱アミノ化によってウラシルに変えてしまう酵素です。ウラシルに変わった塩基は、DNAが複製される時に相補鎖側にアデニンが結合し、さらにもう一度複製がおこるとアデニンの相補鎖側にチミンが結合するので、結果としてシトシンからチミンへの塩基置換(DNA損傷のひとつ)がおこります。この脱アミノ化を誘導する酵素のうちAidとApobec1と呼ばれる遺伝子の発現変化を観察しました。その結果、どちらの酵素も長期間のヒ素曝露によって、顕著に遺伝子発現量が増加することが明らかになりました(図2b)。一方、DNAの損傷修復に関しては、脱アミノ化によるDNA損傷に対して修復を行うUng, Tdg, Ape1と呼ばれる遺伝子に関しても発現量を検討しました。その結果、ヒ素曝露を行うことによって発現が抑制されることがわかりました(図2c)。こちらの変化はヒ素曝露24時間の段階から観察されていました。

図2
図2 リンパ球における長期ヒ素曝露によるDNA損傷の誘導
(a) 長期ヒ素曝露によるDNA損傷を介した細胞老化誘導のイメージ図
(b) ヒ素曝露によるDNA変異の誘導に関連する遺伝子の発現増加
(c) ヒ素曝露によるDNA損傷修復に関連する遺伝子の発現減少

 以上のことから長期ヒ素曝露によってリンパ球は、まずDNA損傷修復能力が低下し、その状態において後にDNA損傷を誘導する因子が増加することで、DNAの損傷がおき、細胞老化が誘導されることが示唆されました。

おわりに

 本研究では、長期ヒ素曝露によってリンパ球で細胞老化がおこるというヒ素の新たな作用機構を明らかにしました。細胞老化は自身の増殖を停止しますが、近年細胞老化をおこした細胞が、炎症性サイトカインなどを産生し、その刺激によって周囲の細胞をがん化させることが報告されています。私たちの研究室では、現在胎児期ヒ素曝露によって生まれた仔が成長後に肝腫瘍を高率に発症するという現象の機序を研究しています。その腫瘍形成の際に細胞老化マーカーが増加する結果が得られていますので、細胞老化の腫瘍増加における役割についてさらに詳細に検討したいと考えています。

 また、その言葉から細胞老化は年齢を重ねた場合にしかおきない現象と考えられがちですが、実は胎児期の発達過程でも同様の現象がおこることも報告され始めています。様々な環境化学物質が細胞老化の誘導に寄与する酸化ストレスやDNA損傷を引きおこすことが報告されています。そこで、環境化学物質により攪乱された細胞老化機構が、生体における疾患とどのように関連しているか将来的に明らかにしていきたいと考えています。

(おかむら かずゆき、環境健康研究センター 分子毒性機構研究室)

執筆者プロフィール

筆者の岡村和幸の顔写真

物理学科から分子生物学の扉を叩いてから今年で7年目。まだまだ勉強不足ですが、衰え気味の体力を趣味のバドミントンの頻度を少し(?)上げることでカバーしつつ、日々気持ちを新たに頑張りたいと思うアラサーです。

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