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化学物質と心

【研究ノート】

梅津 豊司

 私共の身辺は化学物質に満ち溢れ,私共はそれらに曝されながら生活していますので,その安全性が気懸かりです。身近な問題ではないと思われるかもしれませんが,食品の汚染,水や土壌の汚染,シックハウス等化学物質問題に係わる報道は最近でも枚挙に遑が無いのが実状です。化学物質は私共の体の様々な機能に影響を及ぼし得,重要な生体機能である「心」も例外ではありません。

 「心」は漠然と捉えられがちであるため,「心」が化学物質の影響を受けるということにイメージが持ち辛いかも知れません。「心」の座(在り処)は脳であり,脳を構成している神経細胞が「心」の本源です。化学物質は神経細胞を死滅させたりその機能を変えることにより「心」に影響を及ぼすと考えられています。身近な例を挙げると,お酒で酔うのはエタノールにより「心」の状態が変化するからであり,お茶を飲むとスッキリするのはカフェインが「心」に作用するためです。うつ病等の「心の病」の患者はその精神症状を改善するために種々の薬を服用しています。このように「心」も化学物質が影響を及ぼす対象です。これまで多くの事故や事件から有機溶剤,農薬,有機水銀,PCB等が「心」に有害作用を及ぼすことが判明していますが,それも氷山の一角に過ぎないであろうと想像されています。子供に特有の「心の病」である学習障害や,注意欠陥多動性障害,自閉症等広汎性発達障害の患者が近年急増しており,化学物質との関連性が疑われています。また,高齢になるほど発症しやすくなる認知症やパーキンソン病のリスクを高める化学物質が見いだされています。

 化学物質から健康を守るための方策は,問題の発生を未然に「防止」することと,問題が生じた時には速やかに「対処」することです。いずれの場合も当該化学物質の有害作用(毒性)に関する情報が必要になります。「心」についても,一つ一つの化学物質について,どの位の量で,「心」のどの側面に対して,どのような影響を及ぼすのかに関する情報(毒性データ)が不可欠です。人に毒物を与えることは許されませんから,動物実験により「心」に対する毒性データを収集することになります。

 動物に「心」があることを疑問視する人がいますが,動物にも動物なりの「心」があり,人の「心」と共通する部分が少なくありません。動物にも視覚,聴覚等の「感覚」があり,食欲,性欲等の「欲求」もあり,不安や恐怖,攻撃性や子供への愛情等の「感情」,物事を憶える「記憶力」や物事を認識する「認知力」といった「高次機能」もあります。人と比べて大きく異なるのは,人と同様の「言語」を持たないこと,高度かつ抽象的なあるいは論理的な「思考」ができないことと考えられています。人と同じ「言語」を持たないために,動物の「心」を理解することが困難なのです。

 人間同士の場合でも,言葉によらずともその人の仕草,振る舞い(すなわち行動)から,その人の「心」の様子を察することができます。同様に動物の行動も,その時の「心」の状態を反映しているので,行動を観察・測定すれば動物の「心」の状態を客観的かつ定量的に知ることができます。その行動が化学物質を与えることによりどのように変化するかを観察・測定すれば,どの化学物質が,どの位の量で,「心」のどの側面に対して,どのような影響を及ぼすのか,について毒性データを得ることが可能となります。先述のように「心」には様々な側面があるので,各側面を観察・測定するための異なる方法が必要となります。複数の行動観察法を組み合わせたものをテストバッテリーと呼びます。しかし,行動観察法も,どの行動観察法を組み合わせたテストバッテリーが良いのかも確立されたものではありません。新たな行動観察法の開発とより良いテストバッテリーについて研究されています。

 筆者が所有する行動試験法により構成されたテストバッテリーを適用した例として,有機ヒ素の一種であるジフェニルアルシン酸の試験結果を紹介します。成獣(大人のマウス)に長期間与え続けた実験(慢性暴露実験)(表1)と,胎児~乳児期の発達期に限定して与えた実験(発生毒性試験)(表2)を実施しました。成獣の場合は,比較的高濃度(30~100ppm;1ppm=1ml中に百万分の1グラム含まれる濃度)を27週間与えた実験と,より低濃度(7.5~30ppm)を57週間与えた実験を行いました。30ppm以上で運動活性が増加しました。これは興奮性が高まっていることを示しており,人では興奮しやすい,イライラしやすい,睡眠の質が変化する(入眠困難や熟睡できない)等に通じる影響です。条件回避反応の学習も遂行も障害されませんでしたので,人の学習能力や状況に応じて行動する能力には影響しないものと予想されます。しかし,受動的回避反応試験の結果から,比較的高濃度に長期間暴露された場合は記憶障害が生じる可能性が考えられます。また高架式十字迷路試験の成績から,暴露が長期に及ぶと不安を感じ難くなるという感情面への影響も疑われます。注目すべきはロータ・ロッド試験の成績です。この試験では回転する棒の上にマウスが滞在できる時間を測定します。従って,滞在時間が短縮するということは四肢を上手く働かせることができないことを意味します。ジフェニルアルシン酸は人に歩行障害等をもたらす可能性があります。

行動影響の表(クリックで拡大表示)
表1 ジフェニルアルシン酸(DPAA)を成獣に慢性暴露した場合の行動影響
 水を与えた対照群の成績との比較結果をまとめた。—は対照群と差が認められないことを示している。
行動影響の表2(クリックで拡大表示)
表2 ジフェニルアルシン酸(DPAA)を胎児~乳児期に暴露した場合の行動影響

 胎児~乳児期にジフェニルアルシン酸に暴露したマウスには,成獣の場合と異なる影響が及ぶことが判明しました(表2)。まず,運動活性とロータ・ロッド試験では影響が見られませんでした。また新規対象物認識試験で影響はみられなかったので,認知能力に影響は及ばないと思われます。高架式十字迷路試験と自発交代反応試験において,マウスは装置の上あるいは中を落ち着くことなく動き回りました。受動的回避反応試験の成績は記憶能力が低下する可能性と,おとなしく待つことができない可能性を示唆しています。総じて落ち着きがない傾向が認められました。暴露は胎児~乳児期に限られているにも関わらず,この傾向は生後13ヵ月まで観察されました。マウスの寿命は約2年ですから,ジフェニルアルシン酸の影響はかなり長く続くことを示唆しています。今回ジフェニルアルシン酸について検討したのは国内でジフェニルアルシン酸による井戸水の汚染が発覚したためです。調査では井戸水から最高十数ppmが検出されていますので,「心」に影響を及ぼすのに十分な濃度と考えられます。

 化学物質が神経細胞にもたらす有害作用を神経毒性と呼び,発達しつつある若い脳に及ぼす影響を神経発生毒性と呼びます。神経毒性学は比較的若い学問領域であるためその方法論は未熟であり,また現時点で得られている神経毒性データはごく限られています。このようなことから,米国環境保護庁や経済協力開発機構(OECD)は,神経毒性データを得るための試験方法についてガイドラインを策定・公開し,神経毒性データの収集を図っています。一方,我が国はこの点に関して後塵を拝している状況にあります。汎用されている化学物質でしたら,いずれ他国が神経毒性データを提供してくれるでしょう。しかし,使用されている化学物質は国によって異なり,またどの化学物質を問題視するかも各国異なるので,他国を当てにしてばかりいられません。特にジフェニルアルシン酸の事例のように我が国において初めて問題性が発覚し,対策に急を要する化学物質や我が国で新規に開発された化学物質の神経毒性データは,自ら収集する必要があります。今後,我が国においても神経毒性学の発展,普及と化学物質の神経毒性データの集積が望まれます。

(うめづ とよし,化学環境研究領域
生体計測研究室主任研究員)

執筆者プロフィール

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 ネズミを見つめて早25年。密かに「国環研のネズミ男」を自称している。だが未だツーと言えばカーという間柄にまで至っていない。むしろ,嫌われている気が・・・・・・。