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発生源インベントリーの開発
−大気汚染物質はどこでどのくらい発生しているか−

【研究ノート】

村野 健太郎

 発生源インベントリー(目録)とは,地点別,物質別に発生量の情報を与えるもの(=発生量情報)のことです。いろんな大気汚染物質は種々の過程であらゆる場所で排出されています。その様々な大気汚染物質がどこでどのくらい発生しているかを地図として示したのが,我々の研究です。どうしてそのような情報をデータとして,あるいは地図上に示さなければならないのでしょうか。

 国境を越えて大気汚染物質が飛来してくる現象は,越境大気汚染としてあるいは国際的な酸性雨問題として重要です。受容国にとっては他の国から越境していることを証明しなければならないわけですが,雨の中の汚染物質をいくら測っても,そして濃度がいくら高くてもその物質にはどこで発生したものですという目印はありません。

 越境大気汚染を証明するためには,酸性雨長距離輸送モデルによって越境輸送量を計算値で示す必要があります。この越境輸送量を求めるモデルは,発生源インベントリー,気象場(気象条件),輸送を規定する方程式,化学物質の変換を支配する化学反応モジュール,大気中から除去されたりあるいは直接的に被害地に降り注ぐ量を決める沈着モジュールなどで構成されます。この中のどれ一つとしていい加減であっては,酸性雨長距離輸送モデルの計算結果に信頼性をおくことはできません。そして得られた越境輸送量をもとに,受容国は発生国に越境大気汚染の存在を説得していきます。このようなことから私たちは,大気汚染物質の発生源インベントリーというものを作成して,モデル研究者に情報提供しています。

 発生源インベントリーは,全ての情報がそろっていれば正確に作成できますが,必ずしも正確な情報がそろっているとは限りません。そういう場合には,代替情報を使用して,発生源インベントリーが作成されます。

 たとえば窒素酸化物の年間の発生量を求める場合には,その主たる発生源である工場や自動車からの発生量を求める必要があります。自動車からの発生量を求める場合には1台の車から窒素酸化物がどのくらい発生するかを計算しなければなりません。ある特定の1台の車を考えた場合に,1km,10km,100km走る時にその車はどのくらい窒素酸化物を出すかという発生係数が必要です。その他に,年間値を求める場合はその車が年間何km走行するかという走行距離の情報が必要です。その両者(発生係数と走行距離)を掛け合わせたものがその車1台に対する年間の窒素酸化物発生量を与えます。しかし,車は該当地域には多数あります。また多種類あります。理想的にはあらゆる種類の車に対して発生係数と走行距離がなければならないわけですが,そのような情報を集めることは不可能です。そういう意味で平均的な値が用いられ,平均的な発生係数,平均的な走行距離を掛けて値を得ます。国単位の場合には,各種の車の存在数は統計データとしてあるわけですので,それが利用できます。また車のタイプの違いは発生係数がある程度種別分けされて求められています。走行距離数のデータも利用できるデータがありますのでそれらを利用して,例えば日本であれば各県における発生量を求めることは可能ですし,それを積み上げれば日本としての発生量も求めることができます。

 このようなことを種々の大気汚染物質に関して行っていきます。二酸化硫黄の場合には,化石燃料(石炭,石油等)使用量,使用する化石燃料中の硫黄含有量,燃焼過程における残存硫黄量が必要です。また火力発電所や工場では環境対策のために脱硫装置が設置されていますので,脱硫率が問題になります。それらを全部考慮して二酸化硫黄の発生量は決められます。アンモニアは大気中では酸性物質を中和しますが,地表に落ちた後は土壌を酸性化します。このアンモニアの場合には,牛,豚等の糞尿から発生しますので,牛,豚等が年間にどのくらいのアンモニアを放出するかという発生係数と牛,豚等の頭数が問題になります。その他にアンモニアの場合は,過剰に使用された窒素含有肥料が土壌層に吸収されなくて,大気中にアンモニアとして発生する分があります。そういうものを加味して,アンモニアの発生量は決められます。

 このような手法により,国単位あるいは中国のように大きければ省単位に,種々の大気汚染物質の発生量をまず決めます。ただ,酸性雨長距離輸送モデルは往々にしてグリッド(矩形)に区切った取り扱いをします。そういう意味で,例えば日本の場合に県単位のデータは直接には使えないので,もし酸性雨長距離輸送モデルが緯度,経度1度単位であるなら,各県のデータを束ねて,1度単位のデータに変換しなければなりません。これをグリッド化といいますが,このグリッド化に関しても種々の物質で少しずつ違います。例えば,窒素酸化物のように自動車から発生するものであれば,自動車の台数は人口が多ければ多いということで,車の多少を人口の多少に置き換えて,全発生量を人口比(人口比が最も精度の高いデータである)で割り振るということも行われます。

 このようにして得られたものが,図に示した東アジア地域における発生量マップ(例として二酸化硫黄と窒素酸化物)です。これがモデル研究者に提供されます。

 単年度のデータでは明らかではありませんが,このような計算を10年,20年とさかのぼっていけば,ある国における大気汚染物質の削減対策による大気汚染物質発生量の変化なども明らかになります。欧州は酸性雨問題に対処するために大気汚染物質の削減対策をとってきましたが,そういう地域においては1970年データと2000年データには大きな差があります。このように大気汚染物質発生源インベントリー情報は,対策の効果を評価するということとモデル研究者の酸性雨長距離輸送モデル計算の貴重な入力データになるという意味で非常に重要です。

 しかしながら日本はこの分野の研究の取り組みが非常に少なく,筆者は問題視しています。欧州や北米では,各国の大気汚染物質の発生量というものがホームページで誰でも簡単にアクセスできるようになっていますが,アジアではどこにもそんな国はありません。研究の取り組みが非常に少なくて出すことができません。場合によっては,アジアの状況をそれほど細かく把握しているわけではない欧米の研究者がアジアの発生源インベントリーを作成し,それをモデル研究者が使っているという状況もあります。二酸化硫黄,窒素酸化物,非メタン揮発性炭化水素に関しては,基礎となる発生係数の調査値が日本にもありますが,アンモニアに至ってはこの情報がゼロであり,日本やアジアのアンモニア発生量を計算する時には欧州の牛,豚等の発生係数を使用しているという状況です。ということは,得られているアジアや日本のアンモニア発生量というのは,相対的な値はともかくも絶対値としては信頼性がどこまであるかということになります。今後このような研究分野が進展していかなければ,すでに国際社会で取り残されている今の状況がいつまでも解消されないということになります。

 これまで述べた東アジア地域の大気汚染物質の発生源インベントリーは地球環境研究総合推進費C-1により,神成陽容(フリー,元計量計画研究所),外岡 豊(埼玉大学経済学部)らとの共同研究として行われました。

図  東アジア地域の二酸化硫黄(SO2),窒素酸化物(NOx)の発生量マップ(緯度,経度 0.5度,2000年)

東アジア大気汚染物質排出量グリッドデータベース

(むらの けんたろう,前大気圏環境研究領域大気化学研究室長,現企画部環境科学専門員)

執筆者プロフィール:

 30年間勤務して,この3月で退職しました。30年間自分の好きな分野の研究が十分にできて,本当に幸せでした。酸性雨の研究と地環研の人材育成に,少しは貢献できたと思います。国環研の良いところはたくさんありますが,一番は皆が研究を好きでやっていて顔が輝いている点です。若い頃はグラウンドやテニスコートにも活動の場がありましたが,近年は研究室に閉じこもり情報が偏っていることが問題点でした。最後の8年間のバス通勤では足が強くなり,自然を感じられるようになり,環境にも貢献し収穫がありました。