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立命館大学経済学部教授 藤倉 良

  1984年に環境庁の行政職に採用され,土壌農薬課に配属された。当時,降下ばいじん経由で土壌に水銀がどれだけ蓄積されるかを知るための手法の開発が試みられていた。土壌農薬課ではその仕事を地方公共団体の公害研究所にお願いしていた。

 「環境庁の仕事でしょう。どうして国公研(国立公害研究所)にお願いしないんですか」

 役人一年生の私は,素朴な質問を上司にした。

 「あそこはエラいところだから,行政がお願いしてもやってもらえないんだよ」

 農水省から出向していた係長は,なんとなく寂しそうに答えたのを記憶している。

 それ以来,国公研はエラいところなんだと漠然と思うようになった。学生時代は化学を専攻していたので,自分の先輩や同級生,後輩が国公研で仕事をしていた。だから,国公研も普通の職場だと考えていた。けれど,行政官になってからは,国公研は特別なところなのかなあと思うようになった。

 昭和から平成をまたいで科学技術庁に出向した。カルチャーショックだった。本庁と国研や特殊法人との関係が環境庁とは全く違う。工業技術院もそうみたいだ。土壌農薬課の係長が,なぜあんな顔をしたのかわかったような気がした。行政と研究機関との関係はどちらがいいのかわからないが,ますます国公研は他と違ってエラいところなのだと思った。

 環境庁に戻り,国立公害研究所が国立環境研究所に名前が変っても,自分の行政官としての国環研との係わり合いは,基本的には検討会の座長先生や委員の先生とのお付き合いだけだった。

 1995年に九州大学工学部に出向した。学会に入ってみると国環研のエラさが,別の意味でわかった。環境分野ではやっぱり国環研が研究をリードしている。霞ヶ関にいるときにはわからなかったが,外から見ると明らかだった。「環境」が名称に入っている学会ではなおさらである。環境庁の「同期」である天野君が国環研から立命館大学に移ったとき,学生に,「どうして,あんな立派な研究所を辞めて大学なんかに来たのですか」と聞かれたと何かの雑誌に書いていたが,学生がそう思うのも当然かもしれないと実感した。

 もう行政を離れて4年以上経ったので,行政と研究所との関係も自分が知っているときとはだいぶ変ったかもしれない。霞ヶ関に勤める妻が,国環研の先生達と作業するために週末に出かけて行くのを見送ったり,夜,研究者の人と電話で話しこんでいるのを見たりするとそう思う。

 大学から見れば,これからも国環研はエラい研究所,多少,敷居の高いところでいて欲しいと思う。独立行政法人化で,「あり方」についての議論もされているのだろうが,格調高く,研究をリードしてくれる研究所であって欲しいと思う。化学を勉強していた頃,マックス・プランク研究所というのはそういう立派な研究所であって,近寄りがたい所だと思っていた。実際はどうだか知らないが。そんな研究所が,環境分野で日本にひとつくらいあっていいと思う。そして,日本だけでなくアジアの研究者の目標となってもらいたい。もう,そうなっているのかもしれないけれど。

 大学の新設学部名と同じように,「学問」の世界でも環境××学という分野がゾロゾロ出てきた。その全部を国環研でカバーできるとは思わないし,そうすべきだとも思わない。でも,個人的には,国環研の名前をもっと聞きたい分野がいくつかある。生物多様性はそのひとつである。素人の怖いもの知らずで,その手の本の翻訳などしているが,英語の本に出てくる日本の研究者の名前は限られているし,国環研の名前はまだ見たことがない。お前が勉強不足だから知らないだけだと怒られそうな気もするが,とにかくそうだ。自分が身を置いている社会系の学会では国環研も奮闘されているが,もっともっと活躍してほしい。こっちはまだ発展途上で,学会発表も玉石混交だ。国環研に玉をどんどん出してほしい。もっともそうなると,石の生産者である私には居場所がなくなるけれど。

 こんな駄文が国環研ニュースに載ると,生意気だと怒られそうな気もする。でも,そういうコワさ,「権威」みたいなものはこれからもあっていいような気がする。

(ふじくら りょう)

執筆者プロフィール:

1955年三重県生まれ。学部と修士課程は東京大学化学教室で過ごす。学位はインスブルック大学で取得。NMRがテーマだったような気がする。化学者への道をあきらめ環境庁に就職し,90年代前半はもっぱら開発援助を担当した。それがきっかけで,1999年に立命館大学へ移り,「国際環境政策」や「環境と開発」を教えている。経済学については全くの素人。