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干潟・湿地生態系の機能を探求する −干潟等湿地生態系の管理に関する国際共同研究−

研究プロジェクトの紹介(平成10 年度開始重点共同研究)

野原 精一

 自然が豊かな縄文時代,人間は水辺(みずべ・すいへん)に住み,川や海の幸を利用して生きてきた。水辺は陸と水との緩やかに移り変わる移行帯であり,生物の生産性がことのほか高い。そのため,貝塚などの遺跡は昔の水辺に見られる事が多い。やがて,農耕を発明した人間は自然と対話しながら,湿地を人力によって水田に変え,干潟を少しずつ埋め立てて農地をゆっくり拡大していった。時が経って現代,一瞬にして干潟・湿地を陸に変える強大な力を得た人間は,多くの水辺を評価なく無造作に埋め立てて水際(みずぎわ,陸と水との際だつ境)にしてしまった。そして,どこにでもあった干潟はいま絶滅に瀕している最も貴重な生態系の一つになってしまった。ここ半世紀の間に,開発による環境影響予測や干潟・湿地の価値評価を十分にする間もなく急激に埋め立てが進んだ。そのため,これまで人間にどれくらい不利益を与えたのか推定もできない。

 また,干潟・湿地生態系は鳥類の生息地,越冬地あるいは中継地として国際的に重要な生態系であるとともに,独特の生物相を有し,生物多様性に富む生態系でもある。特に干潟は潮の干満により陸と海との環境が交互に入れ替わり,底生生物による底質の撹乱作用(写真1)が大きく,自然浄化機能を有するユニークな生態系である。そのため,1993年に釧路で開催されたラムサール条約国際会議では野鳥の生息の場となる湖,湿地帯や干潟,浅場等湿地生態系の「賢明な利用・活用」を図ることが提唱されている。

写真1
写真1 沖縄県西表島の生きている干潟の表面(1999年2月上旬) 無数のカニの穴と生物による生活痕が見られる。

 このように,湿地生態系の保全及び持続的利用のために,湿地生態系をどのように維持管理していくことができるか具体的な対応が急務である。そのための科学技術研究が必要とされており,欧米では湿地生態系の実態調査研究での知見に基づく評価にしたがって,湿地生態系のミティゲーション(人間活動による自然環境への負の影響を緩和または補償する行為で,回避,最小化及び代償の種類がある)のためのプロジェクトが実施されている。しかしながら,我が国を含めたアジア,極東地域では湿地生態系の賢明な利用・活用方策を確立するための科学的知見が乏しいままに,農地化(写真2),ダム,水門建設等開発行為が進められており,この件に対する対応は完全に立ち遅れている。

写真2
写真2 有明海の干上げられた諌早干潟(1999年1月下旬)
排水溝にはまだ多くのアリアケガニが生息しているが,干拓が完成すると最大の繁殖地を失い,種の絶滅危惧リストに名前を連ねると予想されている。

 以上の状況に鑑み,我が国を含むアジア,極東地域における湿地生態系の保全及び持続的利用のために必要とされる科学的知見を得て,少なくとも回避あるいは環境緩和策を設計することは緊急の課題である。また,研究を円滑に推進するためには,湿地生態系のミティゲーションについて実績と経験のある米国や,我が国の干潟・湿地を越冬地として利用する鳥類の繁殖地となっているロシア,中国との共同研究も必須である。

 そこで,国立環境研究所では平成10年度より重点国際共同研究として「干潟等湿地生態系の管理に関する国際共同研究」を開始した。研究の概要は次のようである。

 干潟・湿地生態系の中から高層湿原・干潟・河川の3タイプの生態系を選択して調査研究フィールドとし下記の2課題の研究を実施し,日本各地の主な干潟・湿地生態系の機能を明らかにする。また,渡り鳥類の繁殖地-越冬地の関係にある中国の湿地-有明海等や,ロシアの干潟・湿地-釧路湿原等,各湿地において干潟等湿地生態系管理の基準となる計画を作成する。

(1)干潟等湿地生態系の特性と生物種の存続機構に関する研究

 干潟等湿地生態系の基本的な環境特性と生物種の存続機構を解明し,各種生物の存続に不可欠な生物的,物理的パラメータを明らかにするとともに,各種生物の最大環境収容力(ある空間に特定の生物が一定期間安定的に生息できる最大の個体数)を算定する。以下のサブサブテーマの観点から研究を進める。
1)干潟等湿地生態系の特性
 GIS (Geographic Information System)解析により干潟等湿地帯の地史的特性,地質構造及び土地利用をまた,リモートセンシングにより湿地生態系の植生地理学的情報及び水環境情報を把握する。さらに湿地生態系の水文,水質変動特性を野外調査によって把握する。
2)干潟等湿地生態系における生物種の存続機構
 生物の種組成,種個体群の遺伝的多様性,バイオマス及び分布特性,湿地生態系生物群集の食物連鎖網を把握し,各生物の最大環境収容力を算定する。

(2)湿地生態系の変動予測と管理計画の構築に関する研究

 上記のサブテーマ(1)の基礎研究で得られたパラメータをもとに評価モデル(環境変化を定量的に把握しモニタリングできる評価手法)を開発して,変動の評価あるいは変動の予測を行い,湿地生態系の新しい機能評価手法を提言する。

 具体的には,まず水文地形学的な特徴から湿地の分類を行う。そして各分類クラスの生態系が基本的に持つ機能(洪水の防止,栄養塩の保持,野生生物の生息場所など)を特定する。さらに,各分類クラスごとに参照湿地(手つかずの良い状態にある参照基準地)から各機能ごとの最大値を求める。実際のアセスメントには開発予定の湿地と参照湿地の生態系の持つ各機能に基づいた比較を行い,機能の程度を数量化する。開発によって推定された湿地の機能がどれくらい減少するかを参照湿地との機能の比較から予測し,事業の影響を評価する。

 以上の成果を踏まえて,自然保護や水質保全の立場から湿地生態系管理の基準となる計画を提言する。

 1999年6月から施行される新しい環境影響評価法には生態系影響評価の項目が加わり,数量的に影響を評価することが必要になってきた。それには生態系の機能の評価から環境アセスメントを実施することが適切と思われる。干潟・湿地の機能を把握する本研究の成果が新しい環境アセスメントのツールとして役立つと信じている。自然の価値にはまだまだ多くの未知のものがあり,特に生物多様性の喪失は人類にとってどのような不利益を与えているのか研究しなくてはならないと考えられる。自然と対話し,貴重な生物のためばかりでなく,人間にとっても重要な未知の湿地の価値・機能を科学的にさがすことが今後ますます重要になっていくと思われる。

(のはら せいいち,生物圏環境部生態機構研究室長)