ユーザー別ナビ |
  • 一般の方
  • 研究関係者の方
  • 環境問題に関心のある方

「環境ホルモン」問題とその影響評価

巻頭言

大井 玄

 近年,環境問題に対する我々の理解は急速に変化している。局所的な環境問題が地球規模に拡大するとともに,環境汚染・破壊の加害者対被害者の図式が錯綜化し(加害者は同時に被害者でありその逆も真),責任の所在が希釈拡散してきたことがよく言われる。それに加えて,後代へそこそこ安全な環境を残せるのかどうかと言う「異世代間の環境倫理」の問題が,我々の前にはっきりとした姿を現している。

 こうした中,環境汚染が内分泌機能を撹乱させる作用を通じて,広く地球上の生物の生殖と生存への脅威となっている事態(「環境ホルモン」問題)は,こうした課題の深刻さを示唆している。

 先日行われた第二回「環境ホルモン」学会講演会では,内分泌撹乱による影響が懸念される人の精子の性状について,未だに恣意的側面の記述が多く,発表者の報告を比較することやどの報告結果に一番の信頼を置くべきか,判断に迷うことがしばしばであった。

 一見して,精液の量や精子の数,運動,形を測るのは,さして難しい作業ではなさそうに素人には思えよう。原理的には一定の条件に精液を整え,位相差顕微鏡の下に,ある区画内での精子数,運動能などを観察することになる。現在では,ビデオ録画によって繰り返し観察し直すことも可能である。しかしながら,泌尿器科・不妊学の専門家によれば,話はそれほど単純ではなく,調査対象となる人々の選び方以外に,調査結果を大きく左右する様々な技術的要因があると言う。

 第一に採取条件の問題である。通常,精液は数日禁欲した後に採取されるが,これがうまく守られない。中年過ぎの男性は精子数を増やそうとして大幅に禁欲期間を伸ばしたりする。また,完備された施設があれば,静かなムードのある個室でAV鑑賞などしながら,精液採取ができるだろうが,大部分の大学病院ではそんな設備があろうはずもない。共同便所でそそくさとした採取を余儀なくされるのが現実であり,こうした採取条件の違いによって,例えば精子数が大きく変化する。さらに,採取技法も影響する。ビタミンB12の投与が精子数を増加させることが実験動物で確認されているが,人体における実験では,対照群と比較してビタミン投与による差が観察されなかった。ところが,採取回数が増えるにつれて精子数の上昇が見られ,採取技法の習熟の効果があった。

 さらに観察方法に問題がある。精液採取後の保存(液化,希釈),計算板の洗浄,顕微鏡用のカバーグラスの密着などの多数の条件が誤差要因となる。また観察者の偏りも問題となる。精子の数は幾万ありとても,頭を左右斜めに振っている元気のない精子は卵細胞壁を貫通することはできない。直進する精子が必要であるが,直進か曲進かの印象は観察者によって異なるものである。

 以上のような数々の技術的問題が,精液評価に関する知見を比較し,統一した見解に達することを難しくしているとすれば,誰の目にも対応方向は明らかだろう。言うまでもなく,採取や観察方法における国内的(そして国際的)標準化と精度管理が必要である。「環境ホルモン」問題への対応が成功するか否かは,関係者がいかに迅速にこうした要請に応えるかにかかってこよう。

 研究者が意欲的に研究を行い,その成果を発表する学会や講演会の愉しみの一つは,びっくりする様な情報や言説が得られることだろう。ただし「びっくり」の内容は,必ずしも愉快であるとは限らない。真摯な態度でこうした現実に対処していくことが大切であろう。

執筆者プロフィール:

東京大学名誉教授 国立環境研究所所長