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免疫系への影響研究 - 司令塔をマークする作戦

研究ノート

野原 恵子

 免疫系は生体防御という大切な機能を担うシステムであるが,普段健康な時にはそのありがたさを忘れがちかも知れない。では動物にもし免疫機能が備わっていなかったらどうなるだろうか。病原性の各種細菌やウイルスにひとたび遭遇し感染すると治癒力はなく,かびは生えるし人の体に一日千個のオーダーでできると言われるがん細胞も難なく増殖できるといえば,もうサバイバルは至難の技である。人類に対する今世紀最大の脅威の一つとなったエイズがCD4+T細胞という免疫細胞を破壊することによって免疫系を不能にし,その結果感染症が人の命を脅かすという現実は免疫の重要性を如実に物語っている。

 その反面,同じ免疫系の細胞群がアレルギーという厄介な病気を引き起こすことは,近年スギ花粉症やアトピー性皮膚炎などのアレルギー性疾患が急増し社会問題化しているのでよく知られていると思う。このアレルギー性疾患の増加に環境中のディーゼル排気粒子等が関与している可能性がかなり以前から疫学で指摘され,動物実験の結果もこれを支持している。このことはすなわち,環境汚染物質が免疫系を撹乱していることを示しているのである。また近頃話題になっているダイオキシンも免疫系に影響を及ぼすことが動物実験で示され,焼却場の近くにすむ住民がアトピー性皮膚炎の悪化との関係を心配しているという記事も報道されている。従来環境汚染物質の健康リスク評価は急性毒性と発がん性を指標に行われてきたが,最近になって免疫毒性や生殖毒性も考慮すべきという考え方が広く浸透しつつあると思われる。

 ところがこの免疫系というのが大変複雑なシステムで,複数の種類の細胞がそれぞれ各種機能物質を分泌しながら多種多様な作用を発揮するのだから,さてどこから手をつけるかが問題となる。近年免疫分野の基礎研究が大きく進展しこれまで不明だった制御の仕組みが解明されてきたことによって,現在ではより重要と思われる反応に的を絞り免疫機能の変化を感度よく検出する方法を確立できる可能性が広がってきている。その中で筆者はT細胞サブセットに着目して研究を行っている。

 複雑な免疫系の制御において中心的役割を果たすのがT細胞という細胞群である。この細胞群には実は細胞表面にCD4という分子をもつCD4+T細胞とCD8という分子をもつCD8+T細胞の2種類,すなわち2つのサブセットがあり,それぞれ異なる機能をもっている。最近ではこれらのT細胞が刺激を受けて活性化するとさらに機能的に異なるサブセットへ分化し,例えばアレルギー反応を抑制したり,促進したりというような重要な働きをすることが明らかにされている。すなわちCD4とCD8という分子だけでは分けきれないサブグループがそれぞれの役割をもつことがわかってきたのである。サッカーに例えて言うと,T細胞は味方フォワードによいパスを出し相手にプレスをかけ時には敵ゴールを襲ったりしながら攻撃を組み立てる司令塔のような存在で,この司令塔はきっかけをつかむといつもの自分とは違う技を使う分身をつくり,この分身達がその局面での試合の流れを作っていくのである。そしてはじめこの司令塔の役目をしているのはみなCD4かCD8のゼッケンをつけた選手達に見えたのだが,よくみるとちょっと違う模様のゼッケンをつけた人達なのだ。たくさんの選手が登場し多くの種類のパスが飛び交う中,筆者はこの司令塔の動きををマークをしようと考えた。

 次にそのようなT細胞を見分ける方法であるが,2種類のT細胞はCD4とCD8というマーカー分子で区別することができる。それと同じようにさらにサブセットを区別できるような細胞膜成分を使うことが有効と考えられる。筆者は細胞の分化や活性化と密接な関係をもつことが知られている糖脂質という細胞膜成分に注目した。そこで実験動物であるラットのT細胞に特異的に存在し,しかも活性化の過程でその量が大きく増加する糖脂質を見つけてこれを単離し,この糖脂質を簡単に検出するためのモノクローナル抗体を作製することに成功した。T細胞は胸腺というところでその前駆細胞が増殖しCD4とCD8の2つの分子を持ったCD4+CD8+細胞(未成熟T細胞)になった後,その中のわずか約2%の選ばれた細胞が2つのマーカー分子のどちらかを失ってCD4+T細胞またはCD8+T細胞へと成熟していく。筆者らが作製したモノクローナル抗体のうちAC1という抗体を蛍光物質で標識したものを胸腺細胞と反応させ,蛍光染色された,すなわちAC1抗体で認識されるマーカーを持つ細胞を細胞分離分析装置(セルソーター)で分析した結果,AC1+細胞はCD4+CD8+細胞の中には全く検出されないが,選択を受けた後の主としてCD4+T細胞の一部にAC1+CD4+T細胞というサブセットとして存在することが明らかとなった。まだ予備実験の段階だが,ダイオキシンを投与したラットの胸腺でCD4+T細胞およびCD8+T細胞を分析しても変化が検出されない濃度でもAC1+CD4+T細胞の胸腺細胞における比率に変化が観察され,このサブセットの変動によって免疫系に起こった変化を鋭敏に検出しうることが示された。

 では,このサブセットはどのような指令を送る細胞群で,その比率の変化は免疫機能にどのような結果をもたらすのだろうか。これまでの研究でAC1抗体で認識される分子がT細胞の活性化や成熟に関与することが示唆されているが,さらにその役割を明らかにするために研究中である。

 このような研究を発展させ,将来的には人の免疫機能の異常を検出できるマーカーの開発につなげていきたいと考えている。

概念図
図 ラット胸腺におけるT細胞の分化・成熟

(のはら けいこ,環境健康部生体機能研究室)

執筆者プロフィール

 お茶の水女子大理学部物理学科卒,その後修士課程で食品化学,博士課程で生化学を学ぶ。学術博士。
<趣味>家族が寝静まった後,一人でゆっくり新聞など読むこと。