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前環境健康部上席研究官 太田庸起子

 昭和52年4月1日,国立環境(旧名公害)研究所大山所長(初代)から採用の辞令をいただいてから17年の歳月が経ち,本年3月末日の鈴木所長からの退職の辞令,4月には新しい職場の辞令と,忙しい移動の春であった。

 4月初めに国環研の「感謝状」をいただいた時が最も実感が伴った。その文面を読んで私も環境研究の発展及び社会の進歩に微力ながら貢献できたかもしれないと思ったからである。私の研究生活の中で当研究所に来る前の17年間は産業衛生の分野であった。具体的にいうと,初めの4年間は職業病に関することで,新抗生物質農薬をはじめとする化学物質による生産工場従業員の健康障害の調査,治療,健康管理,その健康影響解明のための動物実験研究等であり,その後の13年間は当時,脚光をあびた原子力施設での放射線管理,健康管理ならびに放射線を利用した研究であった。この時代は,日本で公害が多発しており,当時,新しい微量分析の方法としての原子炉放射線を利用した環境試料や生体試料中の公害に関係する元素や物質の微量分析を多く行っていた。したがって,当時の国立公害研究所に勤務した時には,新しい分野の仕事とは思えず,今まで興味を持っていたができなかった研究を始めることができるのは幸いと思っていた。初代環境保健部長の脇坂先生の下で仕事を始めたが,先生は大学教授と併任であったため,精神的にはのんびりと過ごせた面もあり,いろいろの想い出が残っている。私にとっては室長としての責務もあるので,公害問題に経験のない若い研究員がいかに興味をもって公害研の目的にそった研究をしてくれるか気になるところもあったが,今となっては老婆心に過ぎず,こちらが新しい知見についていけない程の時代になった。

 研究者は,研究業績が財産であり生命であることから常に整理しておき,過去の研究記録も就業時代中は保存しておいた方がよいことを私は経験した。その点,研究所年報も自分の記録となる。また,環境研究がさらに発展し,前進して行く必要があることを,今まで環境に関係がないと思っていた分野の大学教育の中でも,環境○○学として教課目の中に見られていることから意を強くしている。

 ここで,研究以外で当研究所に貢献したと自負していることがある。私は国環研に来る前にはRI・放射線に関する仕事をしていたため,放射線分野に興味を持っていた。そのため,研究所の放射線取扱い主任者として17年間仕事をしてきた。保健物理,原子力,RI協会等の学会員を継続していたので,最新のニュースも得られ,実務の面では関係者にうるさい程管理書類の整理をお願いした時もあったが,密封線源管理責任者をはじめとする関係者の協力は絶大であった。

 この3月末,研究所からの引っ越しで整理をしているとき,封筒からでてきた一通のハガキに目が止まった。昭和53年6月21日付けの勝沼晴雄教授(国環研元副所長,故人)からのものであった。私が当時関係する学会でも評価を得た安定同位体重酸素(18O)に関する研究の論文別刷を先生に謹呈したことに対して,「…クリーンヒットですね…」というお礼の言葉が書かれてあった。ハガキの表には国立公害研究所環境保健部太田庸起子博士殿となっていた。博士と書かれているのを改めて見つめ,大先生からこのようなお言葉をいただいたことに驚いた次第である。このハガキから,先生が国立公害研究所副所長の時に病に倒れられ,不帰の身になった当時の想い出を新たにした。学生時代から教えをうけ,公衆衛生教室,放射線健康管理学教室でご指導いただいた事が現在迄の研究生活につながっており,感謝の気持を強くしている。

 長かった研究所生活においては,多くの良き人々の中で楽しく仕事ができ,臨時職員で出会った人も含めて友人としての想い出も多い。ここに感謝すると共に,皆様のますますのご活躍を願っている。

(おおた ゆきこ,現在:旭川医科大学医学部教授)

退官記念パーティーにて(平成6年3月18日)