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2015年12月28日

ヒ素曝露による世代を越える影響とそのメカニズムを探る

Interview 研究者に聞く

 ヒ素は生体に対する有害性が高く、世界でさまざまな健康被害をもたらしています。近年、マウスの実験で、胎児期にヒ素に曝露すると成長後にがんの発症率が増加するという結果が報告されました。環境健康研究センターの野原恵子さん、鈴木武博さん、岡村和幸さんのグループでは、この報告を背景に、胎児期ヒ素曝露の影響が孫の世代にまで及ぶという現象を発見し、そのメカニズムの解明に向けて研究を進めています。

研究者の写真
左:鈴木 武博 環境健康研究センター 分子毒性機構研究室 主任研究員
中央:野原 恵子 環境健康研究センター センター長
右:岡村 和幸 環境健康研究センター 分子毒性機構研究室 研究員

自然界に広く存在するヒ素

Q:研究を始めたきっかけは何ですか。

野原:10 年ほど前、アメリカの研究グループが、妊娠中のマウスに無機ヒ素を含む水を10 日間だけ与え ると、そのマウスから生まれた子が中年期以降に肝がんを高率に発症すると発表しました。その論文を読み、世代を越えてヒ素の影響が現れるという現象に強い衝撃を受け、そのメカニズムを解明しようとしたのが研究を始めたきっかけです。

Q:ヒ素とはどんな物質ですか?

鈴木:ヒ素と聞くと、1955 年の森永ヒ素ミルク事件や1996 年の和歌山のヒ素カレー事件などを思い出す方がいるかもしれません。猛毒というイメージがありますが、ヒ素にはいろいろな化学形態があり、毒性もそれぞれ異なります(コラム1参照)。かつては、毒性の強いタイプのヒ素が木材の腐食剤や殺虫剤、農薬などに使われました。現在は半導体の材料にも使われています。また、薬としての作用もあり、急性前骨髄球性白血病の治療薬として使われています。

岡村:実は、ヒ素は自然界に広く存在しています。もともと地球の地殻に無機ヒ素が分布しており、そのヒ 素が地表に放出されて、岩石や土壌に含まれるようになりました。海水にもヒ素が含まれており、海水を通じて海藻や魚介類の体内にヒ素が蓄積されています。

鈴木:バングラデシュなどの世界各地では、岩石や土壌から高濃度の無機ヒ素が地下水に混入し、ヒ素に汚染された水を飲み続けることによって慢性中毒が発生しています。岩石などに含まれているヒ素は無機ヒ素、魚介類などに含まれているヒ素は主に有機ヒ素です。水による慢性中毒をひきおこしているのは主に無機ヒ素です。

Q:慢性中毒の症状にはどんなものがあるのでしょうか。

岡村:色素脱色や角化症などの皮膚疾患や、皮膚や肺、肝臓、前立腺などのがんをひきおこすこと、また心血 管系や代謝系の疾患、神経疾患、免疫抑制などをひきおこすことが報告されています。

Q:私たちは水や食品を通じて環境中のヒ素を摂取する機会があるのですね。

野原:そうですね。特に日本人は魚介類や海藻などを食べる習慣があるので、諸外国と比較してヒ素の摂取量が高い傾向があると報告されています。先ほどお話があったバングラデシュなどの地下水のヒ素汚染の量よりは摂取量はずっと少ないのですが、それでもヒ素を多く含む海藻をたくさん食べる集団では注意が必要と考えられています。

孫まで伝わる?

Q:論文でインパクトを受けた「世代を越えてヒ素の影響が現れる」とはどういう現象でしょうか。

野原:例えば、妊娠中にヒ素を体内にとりこむと、生まれた子供に何らかの影響があるとします。その影響が子供だけでなく、孫の世代や、さらにその後の世代に伝わるということです。そのメカニズムとして、私が最初に読んだ論文では、「エピジェネティクス」が関与する可能性が指摘されており、世界中で注目されています。

Q:エピジェネティクスとはどういうことですか。

鈴木:遺伝情報は基本的にはアデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)という4 種類の塩基の連なり(塩基配列)としてDNAに書き込まれています。エピジェネティクスでは、塩基配列を変化させることなく、遺伝子の働きを変化させ、この変化は子や孫にまで伝わります。この仕組みには、DNAやDNAが巻き付いているヒストンというたんぱく質のメチル化やアセチル化などの化学修飾が関与しています。化学修飾とはDNAやタンパク質の官能基を化学的に変化させて、機能を変化させることで、メチル化はメチル基をつけること、アセチル化はアセチル基を付けることです(コラム2参照)。ただ、どのように伝わるかという、詳しい仕組みはまだわかっていません。

Q:どのような化学物質がエピジェネティクスをひきおこすのですか。

岡村:ヒ素の他にもダイオキシンやたばこの煙、ディーゼル排気の粒子、カドミウムなどによって、DNAのメチル化に変化がおこることが報告されています。

遺伝子への影響

Q:どのように研究を進めていますか。

写真:マウスケージ
マウスケージ
写真:パイロシークエンサーによるDNA メチル化測定
パイロシークエンサーによるDNA メチル化測定

野原:ヒ素によって発がんが増加するという機構を解明するためには、DNAの塩基配列を変化させないエピジェネティクスと、塩基配列を変化させる突然変異の両面から検討することが必要だと考えて研究しています。先にお話ししたように妊娠中のマウスに無機ヒ素を含んだ水を飲ませると、生まれた子が大人になったときに肝がんを高率に発症するという現象を使って実験をしています。最近、この実験で、妊娠中にヒ素を摂取することによって、子供の世代ばかりでなく、さらに孫世代でもがんの発生が高くなるという、驚くべき結果を得ることができました。

Q:環境影響が世代を越えて伝わることを実際に実験によって確認したのですね。

写真:解剖実験
解剖実験

野原:そうです。そして、この結果が意味することは、大変な問題であるだけに、よく理解する必要があります。胎児期に対する環境の影響に関しては、最近、Developmental Origins of Health and Disease(DOHaD)という考え方が注目されています。DOHaDとは、胎児期から乳幼児期の環境が成人期の慢性疾患リスクに影響を与えるという概念です。ここで重要なのは、胎児期だけでなく、生後の環境も重なり合って影響が出るという点です。すなわち、胎児期に悪影響につながる化学物質の曝露を受けたとしても、生後の環境次第で悪影響を打ち消すことができるのです。胎児期のみならず、生後までの環境影響を研究することが必要です。

Q:胎児のときに受けた影響がどうして疾患につながるのでしょうか。

野原:胎児期に化学物質に曝露されると、化学物質がエピジェネティクスを介して遺伝子機能を変化させ、それが成長後の疾患につながるのではないかと考えています。

Q:エピジェネティクスの関与はわかりましたか。

写真:DNA濃度測定装置
DNA濃度測定装置

鈴木:私たちは、胎児期にヒ素を曝露し、肝がんを発症したマウスとヒ素を曝露していない対照群のゲノムを比べました。その結果、メチル化の程度が変化したがん遺伝子をいくつか見つけました。また、ヒ素曝露により肝がんを発症したマウスでは、これらがん遺伝子の発現量も増えていることがわかりました。現在、がん遺伝子のメチル化と肝がんの発症率の増加の関係を明らかにするための検討をしています。

Q:発がん以外にどんな影響がありますか。

岡村:私は白血球やリンパ球など免疫に関わる免疫細胞に対するヒ素の慢性中毒の影響について調べていま す。マウスのリンパ球細胞に無機ヒ素を長時間曝露したところ、短時間のヒ素の曝露では現れなかった「細胞老化」をおこした細胞が新たに出現することがわかりました。

Q:細胞老化とは何ですか。

岡村:細胞は細胞分裂を繰り返しながら、増殖しますが、分裂回数には限界があります。細胞老化は、細胞 が細胞分裂をやめ、自分自身は不可逆的な増殖の停止状態になることです。また、リンパ球の話ではないですが、体内でヒ素によって発がんが生じる組織と細胞老化が蓄積される組織が比較的一致しています。細胞老化は、周囲の細胞のがん化を促進することも報告されているので、ヒ素が細胞の老化をひきおこし、それによってがんなどの疾患が誘導されるのではないかと考えて、研究を進めています。

研究は粘り強く

Q:研究ではどんな苦労がありましたか。

野原:私たちの研究は、非常に時間がかかります。まずマウスを妊娠させてヒ素を含む水を飲ませ、その孫世代が中年期以降になってから肝がんを発症しているかを調べるまでには約2 年かかります。そのため、大学院生が研究したいといっても、2 年間しかない修士課程では、最初から最後まで実験はできません。追試をするとさらに2 年かかります。将来は子供の生殖細胞で実験しようと考えているので、時間がだいぶ短縮されると思いますが、発がん影響を調べるためには、このような長期の実験をする必要があるのです。
鈴木:長い動物実験を終えると、こんどはすぐに解析できないほど膨大な量のサンプルが生じます。以前、解析用サンプルを冷凍庫に保存し、解析を始めようしたところで、東日本大震災が発生しました。あのときは、停電で大事なサンプルがダメになってしまうのではないかと、あせりました。ドライアイスを買い集めることができ、なんとかサンプルが持ちこたえて、ほっとしました。それから、新たにDNA メチル化の解析を始める時は、実験条件の検討にはかなり時間がかかりました。この解析に次世代シークエンサーなど最新の装置を用いると大量のデータが出るので、解析ソフトを扱うためのPC 言語の勉強まで必要で、これも時間がかかりましたね。
岡村:私は現在、国立成育医療研究センターの先生方に教わりながら、次世代シークエンサーによるゲノムワイドなDNA メチル化測定の結果を解析していますが、網羅的な解析に必要なバイオインフォマティクスの習熟に苦労しています。PC 言語はたった1つのスペースが入っていたり、1文字違うだけで全く動作しないことがあるので大変です。

図:バイロシークエンサーで得られたデータ
バイロシークエンサーで得られたデータ

バングラデシュとの共同研究も

Q:ヒ素汚染地域と連携はありますか。

写真:バングラデシュ住民からの生体試料採取
バングラデシュ住民からの生体試料採取

野原:バングラデシュにあるラージシャーヒ大学のフセイン教授からDNAのメチル化解析をしてほしいというメールがきたのがきっかけで、共同研究をしています。
鈴木:共同研究では、フセイン教授がヒ素汚染の深刻な地域の住民から採取した血液をサンプルにして、メ チル化解析をしています。血液からDNAを抽出し、すでに80 サンプルほど測定しましたが、ヒ素で汚染されていない地域と汚染地域の間には、特定の遺伝子のDNAメチル化に違いがありそうなことがわかっています。昨年は、国立環境研究所にフセイン教授やラージシャーヒ大学の研究者を招へいし、DNAメチル化測定の技術指導を行いました。
岡村:東南アジアのヒ素研究者を招いてシンポジウムも行いました。シンポジウムでは、汚染地域の現状がよくわかり、とても有意義でした。来年は、ミャンマーで行われる学会で、ヒ素を研究するグループのシンポジウムがあります。

写真:実験技術指導の1コマ
実験技術指導の1コマ
国際協力セミナー

将来の健康な生活を守っていくために

Q:今後の抱負をきかせてください。

野原:現在、私たちはマウスを使って実験をしていますが、マウスはヒトに比べてヒ素に対する耐性が高いため、実際にヒトが摂取しているよりもかなりたくさんの量のヒ素を投与して実験しています。今後は、ヒトの摂取レベルでも同様のことがおこるかどうかを調べることが必要です。そこで、マウスでメカニズムを明らかにすることによって、DOHaD の考え方のように、生後の環境を見直し、悪影響が及ぶのを防ぐ方法を見つけることもできると思います。
鈴木:ヒ素の毒性のメカニズムを明らかにし、さらにヒ素の悪影響を早期発見するためのマーカーも見つけたいです。マーカーがあれば、病気の予防や健康の維持に大いに役立ちますからね。どの実験を行うのも時間がかかるし、苦労がありますが、私たちの研究は国立環境研究所だからこそできる研究だと思っています。
岡村:妊娠中に受けた影響が孫の世代に伝わると聞くと、不安に思われる方も多いと思います。私たちの研究は人々の不安をあおるために行っているわけではありません。私たち研究者の使命は、過度な不安を払しょくし、誤解を生まないようにするために、正確な科学データを提示することだと思っています。今後もこのような姿勢で研究を続けていきたいです。